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仏弟子たちのダメダメ事件簿 知られざる律蔵の世界①

パーリ三蔵読破への道 連載第二回
佐藤哲朗

●日の当たらない「律蔵」

パーリ三蔵中の律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)は、ちょっと「不遇」な仏典です。専門的な研究書は数々ありますが、原典の全訳は旧漢字・旧仮名遣いの『南伝大蔵経』(一巻~五巻)のみ。律蔵は出家の領分だから、在家者が読んでも面白くないと思われているようです。でも、それって偏見ですよ。むしろ、読み物としてこれほど魅力的な仏典はないといっても過言ではありません。

文献としての律蔵は経分別(スッタヴィバンガ)と犍度部(カンダカ)、附随(パリワーラ)に別れており、我々がイメージする「~なかれ」という罰則を伴った戒律は経分別(南伝大蔵経の一巻と二巻)に収録。じつは、釈尊が伝道活動をはじめた当初、明文化された戒律はなかったのです。戒律は、比丘サンガで煩悩にまつわる諸問題が起きてから順次、定められました(随犯随制)。仏伝では釈尊成道から十二年後からとしています。釈尊在世中、戒律は次々に定められ、出家比丘サンガでは二二七項目にまで増えました。

律蔵には、戒律制定のきっかけとなった事件の記録や具体的な判例集が付記されています。俗世間を離れて出家しながら欲望にかられてトラブルを起こしたダメ僧侶たちの赤裸々な記録は、そこらの小説やノンフィクションよりずっと面白い。サーリプッタ尊者やマハーカッサパ尊者といった「偉大なる人々」の影で、教団でトラブルを起こして戒律の制定にのみ名を残した「その他大勢」の比丘たちに思いを馳せるのも一興かと思います。

●教団追放の罪

二二七項目の出家の戒律には様々なランクがあります。その中でも最も重い戒律はパーラージカ(波羅夷)、一般の社会では死刑にあたる罪です。これを犯した比丘はサンガから追放され、二度と出家することはできません。ちなみにサンガの戒律は、条文が制定される前に犯したもの、精神錯乱で犯したものは無罪、とされます。これは現在の法制度とも通じる規定ですね。さて、パーラージカは四つあります。

一、婬戒。比丘は誰であれ、戒律を捨てる手続きをしないで、異性であれ同性であれ、相手が動物であっても、性交を行ったならば、教団追放。

二、盗戒。比丘は誰であれ、俗世間で法的に罰せられる程度のものを、自分に与えられていないのに、盗もうという心を起こして(故意に)盗んだならば、教団追放。(仏教では与えられていないものを取ることは一切禁止だが、この場合は教団追放罪になる重い窃盗のこと。)

三、絶人命戒。比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放。

四、大妄語戒。比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放。増上慢(覚ったという勘違い)は除く。(冗談でも嘘を禁じるのは普通の戒律だが、超人法に関する嘘は教団追放罪。)

●婬戒の因縁

ヴェーサーリー近郊カランダ村の富豪の息子スディンナが、跡継ぎを残さないままで出家しました。その後、故郷に托鉢に訪れたスディンナは、家の両親と妻から跡継ぎの子供を作ることを強く要請され、出家のままで元の妻と性交して妊娠させたのです。スディンナは「義務を果たした」ことでようやく家から解放されたのですが、自分の行為は出家に相応しくなかったと後悔して激しく悩みました。スディンナから告白を受けた釈尊は彼を厳しく叱責し、婬戒を制定されたそうです。

いささか同情を禁じ得ないスディンナ比丘のエピソードの直後には、餌付けした猿と獣姦した某比丘の話が出てきます……。さらに古代インドには、出家とのセックスを「布施」とする奇妙な習慣があったようで、そのような性的布施を志願した女性に押しまくられて射精に至った比丘の話も載っています。また、チンピラの集団に捕まった比丘と比丘尼が衆人環視のなか性行為を強いられた事件、比丘尼がレイプされた事件など、出家が犯罪行為に巻き込まれた際の判例も記録されており、釈尊教団が置かれていた厳しい環境も垣間見えます。

ちなみにパーラージカの次に重い戒律であるサンガーディセーサ(僧残)は、十三項目中、五つの項目が性(セックス)の問題にまつわる規定になっています。そちらで大活躍?しているのは釈尊教団を代表する問題児、ウダーイー(ラールダーイー)比丘です。

●盗戒の因縁

盗戒が制定されたのは、マガダ国の王舎城にいた陶工出身のダニヤ比丘が起こした事件がきっかけ。自分の庵を作るための資材を探していたダニヤ比丘は、災害時に城塞を修理する目的で備蓄されていた材木に目をつけ、管理人に「王から許可を受けたから」と言って、譲り受けたのです。マガダ国のビンビサーラ王は釈尊教団を保護することを布告していたので、国の財産である材木もサンガで自由に使っても構わないと、勝手な解釈をしたのですね。この行為によって、材木の管理人は逮捕され、ダニヤ比丘もビンビサーラ王から尋問されました。当然、釈尊教団全体もマガダ国の国民から強い非難を浴びました。そこで、釈尊は盗戒を制定したのです。律蔵には、盗戒の解釈について詳細な「判例」が記録されています。

●絶人命戒の因縁

絶人命戒のきっかけはかなり変わっています。釈尊がヴェーサーリー大林の重閣講堂に居られた時、様々な方便をもって不浄に関する説法をなし、不浄観の瞑想を賛嘆しました。それから釈尊は、自らが半月間、禅定に入って過ごすことを比丘たちに告げ、一日に一度食事を持ち来る者以外は、禅定に入っている場所に立ち入らないように申し付けました。

釈尊が不浄観の瞑想を賛嘆したのを聞いた比丘たちは、指導者である釈尊のいない間に、不浄観の瞑想に専念しました。彼らは自分の身体を厭い、恥じ、嫌悪して、ついには自ら命を絶ち、また相互に命を絶ち(殺し合い)、ついには袈裟をまとってサンガの残飯を漁っていた似非沙門(ミガランディカ・サマナクッタカ、「鹿の糞・似非修行者」という意味)のところに行って、「どうか自分を殺してくれ、殺してくれれば、私の衣や鉢は君のものになるから」と頼みました。そこで似非沙門は、衣と鉢のために自殺志望の比丘たちを次々と殺してまわったのです。

似非沙門はいったん自分の行為を後悔しますが、悪魔に唆されてさらに多くの比丘を殺しました。自殺・他殺の入り乱れた血生臭い混乱によって、釈尊が半月の禅定から戻られたときには、多くの比丘は死に絶え、ヴェーサーリー大林の重閣講堂は閑散となっていました。事情を尋ねた釈尊に、アーナンダ尊者は、比丘たちが不浄観の瞑想によって、次々命を断ち、あるいは他に頼んで殺して貰ったりして、こんなに比丘の数が減ってしまったと説明しました。「願わくば世尊、比丘たちに不浄観以外の修行法を授けて下さい」というアーナンダ尊者の懇願を受けて、釈尊は残った比丘たちを集め、呼吸観察の瞑想を指導したのです。そして、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば(他人に殺させれば)、教団追放」という戒律を定めたと言います。

さらに、こんな事件も起こりました。ある不良比丘のグループ(六群比丘)が病人の在家信者を見舞った際、彼らはその妻の美貌に心奪われました。「この病人が生きている限り、我々がこの女をものにすることはできない。我々はこの在家信者に向かって死の甘美さを賛嘆しよう」と考えて、在家信者に向けて「あなたは様々な善行為を行ってきた。この厭わしい生があなたにとって何の意味があるでしょう。死こそあなたにとって生よりも勝るものです。はやく死んで、天界に生まれ変わりなさい。そこで天上の五欲を享受して楽しみなさい」と唆したのです。その話を真に受けた在家信者は、死の魅力にとりつかれて、ろくに食べ物をとらなくなり、病気もどんどん重くなり、ついに亡くなってしまったのです。

死亡した信者の妻は激怒し、不良比丘たちを非難したため、釈尊教団で大きな問題となりました。そこで釈尊は、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放」という形に戒律をバージョンアップされたのです。

この絶人命戒の前半の因縁については、首を傾げてしまうところがあります。瞑想指導者である釈尊が、不浄観についてレクチャーを行った後で弟子たちを放置して禅定に入ったのもおかしいし、集団自殺という結果を予期できなかったのもおかしい。サンガの留守を預かるアーナンダ尊者らがそれに手をこまねいていたのもおかしいし、いくら止められているといっても事件を釈尊に伝える者が誰もいない(食事は持っていっているのに)ということはおかし過ぎる。戒律の制定には具体的な因縁話が必要なことから、無理やりストーリーをつなげたのかもしれません。しかし、不浄観を修行した比丘の集団自殺という事件は、ディテールは違いますが、相応部経典にも記録がある(S54-8)ので、実際に起きた悲劇かもしれません。

●大妄語戒の因縁

大妄語戒は、ワッジー国のワッグムダー河の畔で雨安居に入っていた比丘たちが起こした事件がもとで制定されたそうです。その時ヴァッジー国は大飢饉に見まわれ、比丘たちは托鉢により生活するのが困難でした。そこで比丘たちは、お互いに「あの比丘は禅定の体得者である」「あの比丘は阿羅漢果に達している」などと宣伝しあえば、在家の者たちからたくさんの布施を集められるだろうと考えて、実行したのです。すると案の定、在家者たちは「このような比丘方が安居に入っているとは素晴らしいことだ。一生懸命お布施をしなければ」と、自分たちが食べるものも食べずに、食べ物をその比丘たちに布施したのです。おかげで比丘たちは、飢饉の土地に暮らしていたのに丸々と太り、肌もツヤツヤになりました。

雨安居が終了すると、修行の結果を報告するために釈尊のところを訪ねるのが、比丘サンガの決まりでした。ワッグムダー河の畔で安居に入った比丘たちも、釈尊のいるヴェーサーリー大林の重閣講堂に集まりました。飢饉でやせ細っていた他の比丘たちに比べて、ワッグムダー河畔にいた比丘たちだけは太って肌もツヤツヤでした。釈尊が彼らに安居中の過ごし方を問いただすと、比丘たちは事の経緯を話しました。釈尊はさらに質問しました。「では、君たちがふれ回ったそれ(禅定や覚り)は、実際にあるのか、ないのか?」比丘たちは正直に「ありません、世尊」と答えました。釈尊は激しい言葉で比丘たちを叱責しました。

「愚か者、お前たちは出家が絶対にしてはならないことをしたのだ。愚か者、お前たちはなぜ食い物のために、在家者に互いの超人法(世俗を超越した境地)を賛嘆し説いたのだ。愚か者、お前たちはむしろ鋭利な牛刀で腹を割かれたとしても、食い物のために在家者に互いの超人法を賛嘆し説いてはならない。牛刀で腹を割かれて死ぬか死に等しい苦を受けたところで、地獄に生まれることはない。しかし、お前たちがしたその行為によっては、死後、地獄に堕ちるのだ」と。さらに釈尊は世間にいる五種類の大悪人を列挙して、その最後に、「比丘たちよ、天界・魔界・梵天界を含む世界において、沙門・バラモン・神々と人間のなかで、最大の悪党は、自分にありもしない超人法をあるかのごとく説く者である。彼らは、盗み心をもって社会の布施を食している大悪人である」と断じ、「比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり、超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放」と戒律を定めたのです。

しかし、釈尊がこの律を定めたことで、教団には深刻な悩みに陥る者が続出しました。「私はかつて、禅定に達してもいないのに達したと思い、覚りに達してもいないのに達したと思い、増上慢(覚ったという勘違い)によって他にこれを説いたことがある。ああ、なんと恥ずかしいことだろう」と。後悔に打ちひしがれた比丘たちは、アーナンダ尊者に相談しました。尊者が釈尊に比丘たちの困惑を伝えたところ、釈尊によって「増上慢は除く」という例外が加えられたのです。

かなり端折りましたが、以上がパーリ律蔵経分別のパーラージカ(波羅夷)因縁です。正確には比丘(男性出家者)の波羅夷で、比丘尼(女性出家者)に対しては別途さらに四つの波羅夷が定められています。これもまた「人情」の機微に触れる上で興味深いですが、誌面の制約もあるので省きます。次号では律蔵の犍度部(カンダカ)を紹介します。こちらは釈尊教団の成立史に関わる重要な文献です。

(初出:サンガジャパン Vol.2(2010Summer),サンガ,2010/6/28、単行本『日本「再仏教化」宣言!』サンガ,2013/12/27収録時に加筆修正)

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