ハイエクの商業差別・批判

「自由主義」を現代において称揚するなら、その主体は私はハイエクを潜らないといけないと考えている。ナチス、ソビエトを同じ全体主義の枠組みで考えたハイエクは、鬱だったそうだ。西欧の経済学では長く左翼=アカデミズムであり、ハイエクは大学に職を得られない中、一人で戦った。曰くノーベル賞受賞がハイエクの命を救ったと。

ハイエクの『致命的な思いあがり』では、人類の「商業差別」の根深さの歴史を語っている。コロナ禍で過剰な自粛に賛同した所謂自称「リベラル」は、多くは自粛に無批判に(まさに全体主義的・統制主義的と多くに批判されながら)従った。私はこれにハイエクが語ったアリストテレス、キリスト教等を通して歴史的に実践された、商業差別の根深さと同等なものをこそを見た。ハイエクは日本についてもここで言及し、「聞く所によると十九世紀になってもまだ日本では商人は被差別階級であった」と述べている。このこと(=無意識)にこれらの人々がいつの日か、自省ができるかどうか?


私はこの池内恵氏と飯山陽氏の、表面的には口汚い中傷の応酬の中にも同じ「商業対、商業差別(アカデミズム)」の図式を見た。池内氏曰く飯山氏を「学者ではない。狂乱(?)ユーチューバー、インフルエンサー」等。飯山氏は曰く池内氏を「公金チューチュー」「外務省の意向に沿った」等と。

参照。

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