加藤 豪

1964年生まれ。美術家。東京芸術大学絵画科油画専攻卒業。東京芸術大学大学院美術研究科…

加藤 豪

1964年生まれ。美術家。東京芸術大学絵画科油画専攻卒業。東京芸術大学大学院美術研究科修了。【主な展覧会】2008年、釜山ビエンナーレ(釜山市立美術館)。2001年、先立未来展(ルイジ・ペッチ美術館、イタリア)。1997年、デ・ジェンダリズム展(世田谷美術館)。名古屋市在住。

最近の記事

「格差」は作り出されなければならない

私は比較的近年ではフリードリヒ・ハイエクの晩年の著『致命的な思い上がり』を読んでかなり影響を受けている自覚があり、特にそこで(交易における)「情報の機密性」の重要性を述べている箇所。同書で、文明の条件として(共有ではなく)「私有(ハイエクの用語では個別的所有)」が語られている所もそれに内容が重なる。 先ほど見た彦坂尚嘉氏の新しい動画で、それに近いことが話されていると私は感じた。美術家は例えば大学で教えると駄目になるという話もそうだが、より具体的に最新の技術であるAIを用いた

    • New-Surreal (167)

      Go Kato “Automatism (Encountering the Unknown)” Apr. 23rd, 2024      

      • 時代区分の混在・今しかないという感覚

        彦坂尚嘉さんの言う「無芸術」(用語自体は元々アラン・カプローのものらしい)は、落ちて行く文明、即ち「無文明」=現代を前提としているらしいが(現在の世界の戦争・政治状況を見てもそのように確かに私にも感じられるが)、奈良美智や村上隆、あるいは草間彌生を見ても既に現に芸術の本質が失われ立派に底まで落ちた形になっている。そこで「盛期ルネッサンスの頂点」としてのレオナルド・ダ・ヴィンチを、特にAIの特徴とスフマートを結びつける形で彦坂氏が再度注目するというのは、どういうことだろうか。そ

        • New-Surreal (166)

          Go Kato “Automatism (Rococo)” Apr. 16th, 2024      

        「格差」は作り出されなければならない

          鈍臭い榎倉康二さん

          日本の現代アートがアホのままこうして収束したのは、私の観点からは60年代・全共闘以来の「反米」をあまりにも真に受けて、20世紀後半以後の全く衰退したヨーロッパの文化状況に自己の弱さを擦り合わせて正当化し逃げたから。80年代ニューアカデミズムを経由しても、それは全く切断されずにむしろ強化され引き継がれた(=まさに「逃走」論)。集団的に積極的にアメリカ(のアート的強部)を盲点としたということ。私の学部の担任だった榎倉康二さんは、もろにその雛形で学年を超えて全体的にその影響を与えて

          鈍臭い榎倉康二さん

          展覧会をするべきではない時

          今、展覧会とかするべきじゃないだろうな。一番。 私は現代アートは美術史的に完全に一区切りだし(その内部では内容の更新がない)、実質的に終わったがその内部にいる人たちが続けてきた欲望の処理を未だできていないだけという認識。美術自体は生まれ変わる。   参照。  

          展覧会をするべきではない時

          New-Surreal (165)

          Go Kato “Automatism (The Charging Chasseur)” Apr. 11th, 2024      

          New-Surreal (165)

          New-Surreal (164)

          Go Kato “Automatism (Depths of the Earth)” Apr. 7th, 2024      

          New-Surreal (164)

          共産主義と国家社会主義の二項対立

          日本の現代アート業界には言論の自由がないと皆が言うのは、アメリカの民主党と共和党のような対立図式をモデルに考えることは一概にできない。むしろ、政治が共産主義か国家社会主義かの二択になっており、「自由主義」が介在しないことが、そのベースになっていると考えられる。息苦しさの元。     参照。     [追記1]   現代において「自由主義」を思考するには、フリードリヒ・ハイエクが最も良いと私には思われる。ハイエクが述べるように社会主義への欲望とは、原始的なものだと言って

          共産主義と国家社会主義の二項対立

          塵の勇気の行方

          SNSについての「シグナル/ノイズ」の比喩がレックス・フリードマンとイーロン・マスクの対話でも語られているが、これは美術に関しても今日的な話題。久しく前からある「現代アート=詐欺」または「現代アート=ゴミ」という慣用句は周知。この始祖は、私はマルセル・デュシャンよりむしろパブロ・ピカソと指定し考えている。しばらく前からXのピカソ画像・自動アカウントを私は継続して見ていて、ピカソが優れているのはやはり「青の時代」と近代の美術史の特異点となった「分析的キュビスム」に正確に限られる

          塵の勇気の行方

          New-Surreal (163)

          Go Kato “Automatism (Flowers on other Planet)” Mar. 31st, 2024      

          New-Surreal (163)

          物への執着

          ピカソの子供の頃のこういうのはイラストなんですよね。典型的に。私も、誰しも最初はそうだった。 「全体」「空間」が捉えられていない。対象としての「物」への執着。   参照。  

          物への執着

          そんなに大したことない人の「反省」(と居直り)

          参照。       ちなみに、女性から男性へのセクハラ事例というのも確実に存在する。これは大学云々ではなく一般的に。「リベラル」男性が主に欧米のフェミニズム思想家(多くがレズビアンであることを表明している)の「全ての男性が敵」をベースに、自身を「反省」風にそれに同調することがあるが、それはまさに「致命的な思い上がり」であって、実際にはそんなに大したことはない(笑)。 [追記] もう一つちなみに。私が追求した名古屋芸大教員のセクハラ事例は、上の記事で紹介されているようなレ

          そんなに大したことない人の「反省」(と居直り)

          日本の「アート」の幻想

          日本の「アート」の幻想は(自明かもしれないが)その発祥は「芸術」ではなくサブカルから来ていて、近い所では例えば中島らも。自身の(結局死に至らせることになった)飲酒について、「高邁な思想がある訳ではなく気持ち良いから飲んでいるだけ」と晩年告白しつつ、若年期には朝から缶ビールを飲みながらカーテンの隙間から出勤するサラリーマンを見つつ、それを対象に高みに立ったつもりで嘲笑する快楽に溺れていたと、これは自嘲的に告白。基本的にこの種に根拠づけられた幻想が支配しているものだと私は考えます

          日本の「アート」の幻想

          New-Surreal (162)

          Go Kato “Automatism (City)” Mar. 27th, 2024      

          New-Surreal (162)

          (特に日本の)現代アート表現には、何故か「ヒステリー」表象が多い

          参照。     これは、典型的な「ヒステリー」的作品(の再制作)と私は見ます(An installation view of "Cut Piece" (2023) by Fuyuhiko Takata. )。 ヒステリーとは、主体が自らを表象する仕方への絶えざる違和感の表明。「私」でも落ち着かず、「僕」「俺」と言い換え、さらに「あたい」「あちき」「あっし」「わし」「わい」等にも近年(性別を問わず)変転し得るのを見るが、違和感が消失すること自体はない。「現代アート」ピープル

          (特に日本の)現代アート表現には、何故か「ヒステリー」表象が多い