1. 教育とは - 心理と教育へのいざない

放送大学、「心理と教育へのいざない」の「1. 教育とは」の演習課題をやっていく。本日の課題は、以下の3つ。

  1. 通過儀礼が教育の始まりと言われる理由にはどのようなものがあるだろうか。自分自身の経験を振り返ってその意義を考えてみよう。

  2. 教育意図と形成作用の間で生ずるパラドクスとは何か、その例を挙げて説明してみよう。

  3. 教育の伝達観と助成観の違いはどこにあるか、またあなた自身の立場はどちらに近いかについて考えてみよう。


通過儀礼が教育の始まりと言われる理由にはどのようなものがあるだろうか。自分自身の経験を振り返ってその意義を考えてみよう。

通過儀礼は一種の区切りになる。

通過儀礼という字面から僕がイメージするのは部族的な通過儀礼だが、あれはまさに「区切り」で、これが出来たら一人前だ、という節目にあたる。

僕は日本に生まれたので、そういった通過儀礼はあいにく経験がないが、これに一番近いものはやはり「入社式」だと思う。これまでは半人前の学生だったのが、一人前の社会人になる瞬間。入社式の時点では既に試練に合格しているわけだけど、節目としては、かなり大きいものがある。

僕の場合は入社式の前に「成人式」という通過儀礼もあったわけだけど、当時学生だったので、あんまり大きな節目だとは思えなかった。強いて言うなら法的に飲酒喫煙が認められたことくらいか。

僕の親世代の価値観だと、勉強していい大学に入って一流企業に入ることが最良の人生だったので、僕自身その影響を受けて育っている。なので、そこそこに高校受験を頑張って高専に入り、大学受験こそなかったがそこそこに勉強を続け、そこそこの会社に入った。

当時はまだ終身雇用という感覚も強く残っていたので、入社がゴールみたいな感覚があり、入社式という通過儀礼をくぐるために、高等教育を受けてきたようなところがある。

なので、通過儀礼、ここでは入社式に到達するために教育がある。つまり、通過儀礼が教育の始まりだ、といえそうだ。

なお、入社後にこれまで受けてきた高等教育を活かすことが出来ない企業が多いことは、これはまた別で非常に由々しき問題だと思うが、ここでは議論しないことにする。


教育意図と形成作用の間で生ずるパラドクスとは何か、その例を挙げて説明してみよう。

教育意図、形成作用はそれぞれ以下のようなものだと解釈している。

  • 教育意図: 字面の通り、「こうしよう」という意図を持ったもの

  • 形成作用: 意図せずして発生したもの

つまりここで言われるパラドックスとは、こういう意図を持って教えたのに、全然違う方向に行ってしまった、みたいなケースがこれに当たるはずだ。

これはちょうど近い例がある。

僕が今受けているこの「心理と教育へのいざない」という科目。この科目を僕がなぜ受けているかというと、別の狙っていた科目の前提知識としてこの科目が要求されていたからだ。なので、別に僕は教育に関しては特段興味はない。ただ、受けてみれば受けてみたで面白いもので、教育の分野に関してももっと学びを深めたいと思った。特にリカレント教育や社員教育など、大人になってからの教育については、これからの自分自身にとっても、非常に興味深いテーマだ。

また、今期受けている科目に「哲学・思想を今考える」という科目がある。僕が放送大学に入った本命は哲学エアプじゃなくなることだったので、この科目は本命科目の導入科目と言ってもいいだろう。ただ、この科目は正直あんまり面白いとは思えない。しかし、この科目を学ぶ形成作用として「宗教」に深い興味を持ち始めた。

これはまさにパラドックスだろう。


教育の伝達観と助成観の違いはどこにあるか、またあなた自身の立場はどちらに近いかについて考えてみよう。

伝達観、助成観はそれぞれ以下のようなものだと解釈している。

  • 伝達観: カリキュラムに沿った、受動的なもの

  • 助成観: 個性に応じた、能動的なもの

伝達観は僕が受けてきた教育そのものだと思う。「先生」がいて「カリキュラム」があって、それを「生徒」に「伝達」する。どちらかと言えば一方通行な考え方に思える。一方で助成観は、そういう決まりきった進め方ではなく、教育する側とされる側が双方向、あるいは明確に教育する側とされる側と区分けすることすら難しいかもしれない。助成観的な教育は、僕は受けたことがないので、これ以上語ることは出来ないが。

先にも述べた通り、僕が受けた教育は伝達観的な教育だが、僕自身は助成観的考え方に近い。理由としては、「強みをより伸ばすべき」だと考えているからだ。

例えば数学オリンピック優勝者がクラスにいたとして、伝達観だと「みんなと同じ」教育を受けることになるはずだ。これだけずば抜けた知能があったとしても、伝達感ではそれを活かし切ることが出来ない。であれば助成観で個々に応じて適切な教育を行ったほうが、断然良いはずだ。どんどん飛び級させて、サクッと博士課程まで進めるルートを整備すればよいのに、と常々思っている。

所謂ギフテッドの方が日本では生きづらい原因は、このあたりの教育観に影響されるところが大きいのではないだろうか。


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