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アメリカのスポーツに対する価値観について

先日、現在はスタンフォード大学のアメフトチームでコーチをしている河田剛さんのセミナーに参加してきました。

こちらは、SHCの本コースとは別のものなのですが、NCAAというアメリカの大学スポーツ協会のことを中心とした、アメリカのスポーツ事情についてが本セミナーのテーマです。

ちなみに、日本でもNCAAのような全国で統一した大学のスポーツ協会を作ろうとスポーツ庁を中心に近年では動きができています。もともと、アメリカの学生スポーツ界ではアメフトの試合での死亡事故や、選手の学力低下などから、ガバナンスを強化しようと100年ほど前にNCAAは設立しました。

※日本でも同じような課題は今もあるのかなと。


さて、本セミナーではアメリカのスポーツに関する価値観についていろいろと学びました。

特に印象的だったことのひとつが、「スポーツは人生の一部」という考えです。

NCAAでは選手を”学生アスリート”と呼び、スポーツ選手である前に学生であることを大前提としています。そのため、学業で一定以上の成績がないと試合だけではなく、練習への参加も制限しています。

将来、卒業後にスポーツで生計を立てられる人はほんの一握りであり、学生時代に一つのことに打ち込み、それがなくなったときに何もできない人材を輩出してはいけません。日本では選手引退後については選手個人に任せきりのような印象ですが、アメリカはNCAAだけではなく、プロリーグでも選手のセカンドキャリアに積極的に取り組んでいます。例えば、NFLは大学生は卒業していなくともドラフト指名することが可能なのですが、リーグとして現役中でも引退後でも卒業までの学費を支援しています。特にオフシーズンはチームとして全体練習の時間をかなり制限するなど、選手個人が自分で判断して使える時間を用意しています。

また、人生はスポーツだけではないという価値観は学業以外の面でも浸透していています。

アメフトでは激しいコンタクトスポーツであるがゆえに、脳震盪の問題と隣り合わせです。NFLでは脳震盪と診断された選手は一定期間、その後の試合出場を制限されますし、脳震盪の回数が一定数に達すると引退勧告となるようです。

以前、AJ.タープレイという選手がいたのですが、この選手はチームから将来を期待させた有望な若手選手でした。この選手は、まだ引退勧告とはならない3回目の脳震盪と判断されたとき、自ら引退を決断しました。

というのも、過去の練習時の脳震盪を今まで隠していたようで、その分をカウントすると引退勧告の脳震盪回数に達すると。

ただ、自分のサイズではNFLの環境では持たない、それにこれからの人生のほうが長い、と本人は決して悲観的になっていないというのが、印象的でした。

その道一筋の考えが強いので、なかなか日本ではないような考え方だと思います。


そして、ふたつ目は「合理性の追求」です。

近年、日本の高校野球でもようやく球数制限の議論が生まれてきました。

松坂がトミー・ジョン手術をしたあたりからだと思うのですが、学生時代からの練習での投げ込み、甲子園等での短期間での投球数が”美談”ではなく、”酷使”と捉えられる人が多くなってきています。

今年、新潟県の高校野球連盟が球数制限を導入しようとしていましたが、結局は見送りに。その経緯はよくわからないのですが、部員数が少ないチームでは不利なルールであるとがひとつの理由なのでしょうか。有名な監督までもが堂々と、一人のエースピッチャーに頼らざるをえないチームが多い、と球数制限についての懸念をテレビのインタビューで回答していました。

ただし、アメリカでは球数制限による不公平なチームが発生することはどうでもよく、選手の将来を最優先した指導をします。

「ボールを投げる度に肘は消耗していき、ヒジが耐えられる球数には上限がある」という考えがアメリカでは一般的であり、小中学生のクラブチームの指導者でもMLBが作成したガイドラインに沿ってピッチャーの球数を管理しています。むしろ、選手の将来を考えた競技力アップ、制限がある中でチームをマネジメントをすること、これが指導者の役割であり、「うまい選手はうちのチームにはいない。だから朝から夜遅くまでとにかく練習した」というのは、指導力がないと捉えられるようです。

また、日本の学生スポーツを見ると、声出しや下級生の雑用、長時間の練習、野球でいうと意味のないヘッドスライディングは結局は「見ている人、やっている人が満足している」だけで、チームが強くなるうえで本当に必要なのか疑問です。これはこれで文化的な側面もあり、残す残さないは自由です。ただし、選手の役割は自身の競技力を上げることであり、そこに上級生、下級生もなく、むしろ下級生が成長すれことはボトムアップでチームとして成長すると考えています。成果がよくわからないことにエネルギーを使っている間に、アメリカではチームが勝つことを徹底的に追求した練習、試合を行っています。


アメリカではスポーツ界の中枢に優秀なビジネスマンが活躍していていることもありますが、当然のように合理性を追求することは、多様性を許容する文化だからかな、と思っています。

“Life is unfair”の通り、移民国家のアメリカでは、多くの人種の人が同じ環境で、人々の多様性を認識した前提で生活しています。様々な価値観がある中で、複数のメンバーが合意をするには、それが納得ができること、そして納得するには合理的であることが必要になります。

ただし、文化、国民性のちがいで日本の不合理な部分を許容し続けではいけませんね。


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