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エベレスト高山病ポエム

エベレストなう。エベレスト街道の中腹地点、ナムチェバザールに着いてからの高山病に苦しめられており、なぜか今noteを書いている。

高山病は正直舐めていた。とんでもなく辛い。24時間頭痛、食べたら吐く、熱っぽい気だるさと人間としての活動を全て阻んでくる感じ。
なんとか今回の最終地点のホテルエベレストビューまで到着し、そこでベッドにいるわけなんだが、このホテルは世界でも指折りの最高の景観が望め、部屋の窓から見える6,000メートル級の山々、展望台から360度エベレストの山々を見渡すことができる最高なロケーション。だがしかし体調が悪いと本当に何も感じないのが不思議。体調が良かったらやりたかったことも全てキャンセル。これまで自分の健康面は過信していた節があったが、今回で痛いほど身をもって過信できるはずがないことを痛感した。

そんな状態でベッドで横になりながら色々思考している。(というかそれしか出来ない)
なんでエベレストにきたのか、どんな経験をしたのか、カトマンズやネパール自体はどうなのかはまた元気な時にまとめたいが、今回はこの高山病のひどい頭痛の中で思っていることをそのまま書き留めたい。

ホテルエベレストビューは3,880メートル。ここまで3日かけて登ってきたエベレストの道中でポーターさんという方々をたくさん見てきた。ポーターさんとは登山者の荷物を持ったり、山の上の村に物資を送るときに荷物を持つ人で、頭に荷物をまとめた紐を引っ掛けて自分の体重より全然重たいような荷物を運ぶ。一番衝撃だった人で、洗濯機とテレビを運んでる人がいた。

びっくりして、一緒に登っている案内をしてくれている方に聞いてみたら、「あの感じだと洗濯機の中にまた荷物が入っているよ」と笑っていた。今泊まっている3,000メートル地点以上のホテルなどはある程度まとめた量の物資が必要となるので、その場合は馬や牛に荷物を持たせて登ったりもする。馬と牛とも本当によくすれ違った。

このポーターさんたちをみていてふと考えたことがある。
「自分とは誰か?」という問いに対しての一つの考え方として、自分以外のものではないものが自分という捉え方がある。自分を認識するには自分以外のものと比較するしかないというのは仏教哲学。これに則ると自分以外の認識の幅を広げることが自分の理解を深めることになる。今回のこのポーターさんやヒマラヤで暮らす人々をそれなりにゆっくり観察することができて、「自分にもこう言う人生もあったかも」という自分以外のものの尺度をもつことになると思った。

改めてポーターではない自分とは何なのか。すごく深く考えすぎると深淵をのぞくようなテーマだけど、少なくとも何かしらで仕事の貢献の対価として、お金をもらっており、ポーターの方にお金を払って荷物を持ってもらえるということはイメージできる。

もし自分がポーターの人生を過ごした場合、ちょっとした山登りで高山病になっている自分は間違いなく無価値である。しかし自分はポーターの人生を過ごしてないから何かしら価値がある。そんなことを思いふけながら意識を朦朧とさせている。

今回ナムチェバザールで引き返すことにしたのだが、次はエベレストベースキャンプ(標高5200メートル)まで行きたい。その時にポーターさんにしっかりお金を払えるよう、自分の人生を引き続き全うしていこうと思う。

以上中身があるようでない、高山病ポエムでした。

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