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the MOTHER╱かあちゃん

 「インドの男性はマザコンが多い?」
たまに一部の旅行者や短期滞在の外国人がそういったことを口にするようです。確かに、公共の場で老母に跪き甲斐々々しく世話をする中年男の姿は、異文化に生まれた者の目には奇異に映るかも知れませんね。
 一概に云えませんが、父系社会ではその使用言語(≒ 思考の基本)がいわゆる〝男尊女卑〟を前提にしており、端的な例を挙げれば、父母と言っても「母父」とは言わないわけです。
ところがインドでは、PARENTSをमाता पिता(マーター・ピター╱母父)と言います。例えば国民の圧倒的多数派たるヒンドゥー教徒は、女神のことをमाता जी(マーター・ジー╱母上様)と呼びますが、原則的に男性神をピター・ジー(父上様)とは言いません。但し、これについては「男性名詞で呼ばれる神も性差を超越した存在だから」といった主張もあります。しかしそれでは母上様と呼ぶことへの説明にはなりませんね。
 また、古くから日本人に馴染みのある仏教用語の『極楽浄土』も、原語:Sukhavati(スカーヴァティー)は女性形なのです。Sukha(幸福)+vati(~の場所)から成る言葉ですが、vatiはvatの女性形です。ちなみに、ヒンドゥー教の天国もAmaravati(アマラーヴァティー╱永遠の場所)と云われ、やはり女性形です。おそらく原始母系社会の名残が古代インドのパラダイス信仰の基底にあるのでしょう。いわば、お袋のふところ、と。
 要するに、外国人の目にはマザコンに見えるようなことでも、インド人にとっては〝信心深さ〟の証明なのです。

 さて今回は、すでに「偽経 (ぎきょう╱インドをオリジナルとしない中国で作られた仏教風の書物)」として批判され尽くした感もある『父母恩重経』(具名:仏説父母恩重難報経)について、改めてインド文化の視点から読んでみたいと思います。
 まず、経題(タイトル)からして、母父の逆。これでは誤訳…おっと、創作でしたね。
 本文の出だしは「是の如く我れ聞けり。一時仏王舎城の耆闍崛山に菩薩声聞の衆と倶にましましき」と、とりあえず定番中の定番です。耆闍崛山(ぎしゃくっせん╱グリドラクータの音写。意訳:霊鷲山)は、今では観光地として整備されていて、こういった感じです。

耆闍崛山(霊鷲山)

 ところが、オープニングを過ぎた辺りから徐々に雰囲気が変わります。
お産に伴う母の苦痛や父の不安、親戚らの心配する様が語られ、続いて子育てに奮闘する親の姿がリアルに述べられます。とはいえ、それってわざわざ経典で云うことかあ?とも思いますが、ここまでは昔の中国人が「天竺も似たようなものだろう」と想像して書いた家族の描写です。しかし、子供が結婚した辺りから急転直下、泥沼へと滑り落ちて行きます。 
 もはや若夫婦だけが〝頼みの綱〟となった老父母に対し、普段は顔も見せず、用事があって呼べば怒りに満ちた目で睨みつけ、怒鳴り飛ばし、嫁も孫も一緒になって老親を侮辱し、クスクスと笑う。そして「老い耄れるくらいならさっさと死んでくれや」と吐き捨てる。それを聞いた親は怨念に胸が塞がり、目も眩み、「いっそ生まなければよかった!」と大号泣…。
これを書いた人の家庭の方が心配になります。 
 次いで、もし子供が親に対してこのように振る舞ったならば、すぐさま地獄・餓鬼・畜生道に堕ちる。そんな子は、あらゆる如来も神々も聖者も救えないのだ、と。なるほど。 
 その一方で、もしも親が〝アンチ宗教〟だった場合、子供は仏教徒としてハンガーストライキを決行せよ、と。いくらアンチでも自分のせいで子供が飢え死にするのは嫌なはずだから「恩愛の情に牽かれて、強いて忍びて道に向かわん」(訓読)。
 目的は手段を正当化する、とでも云いたいのでしょうか。
念のため、これを「説いた」ことにされているゴータマ・ブッダは、老いた実父と養母を捨てて出家しているんですがね。 
 また、ここに登場する脇役たちも、他の経典に類を見ないほど露骨に感情を表します。「是の時、阿難、涙を払いつつ座より起ち」「是の時、梵天・帝釈・諸天・人民(中略)、五体を地に投じて涕涙雨の如く」など、アーナンダだけならまだしも、神々までオイオイ泣き出したというのは、下手をすればコントでしょう。 
 儒教の五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)を如何にして仏教に落とし込むか、それがこの偽経の製作意図だったようです。では、これをインドの伝統文化に沿うように校正したらどう変わるのか、試してみましょう。
もっとも大きな違いは、子供の結婚です。
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 幼い頃に占星術で決められた許嫁同士が結ばれ、花嫁は姑を女神として崇めるように誓う。花婿にとっては実母といえど女神であり、嫁が後継男児を生めば、家庭内の宗教的順位は暗黙の内に決められる。

帰依の作法:चरणस्पर्श(チャランスパルシュ╱接足礼)

 若夫婦は老親に良く仕えることを社会的にも求められ、その点に問題があれば、人間として信用されなくなる。何歳になろうと、親を睨みつけたり声を荒げたりすれば打擲される。インドにおいて《長幼之序》は神と人の関係を縮尺したものであり、親を捨てることは神への反逆なのである。ゆえに人は神の定めたカースト制度を遵守し、血統世襲の職業にいそしむべきなのである。
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…といった具合に、根本からまるで別の内容になってしまいます。

 『父母恩重経』。親や家族をキラーワードに使って情緒に訴える布教法は、現代のカルト教団にも通じる禁じ手です。その意味では、この偽経にも今日的価値はあるのでしょう。

 「バーラト・マーター・キー・ジャイ(母なる女神インドに万歳)」
これはヒンドゥー教徒の合言葉です。表面的には母国を讃える〝赤誠〟のように聞こえますが、その実態は、手軽な愛国心を隠れ蓑に、カースト差別や様々な社会矛盾を体よく誤魔化しています。また、ヒンドゥー教以外の思想信条─もちろん仏教も含む─を排除する言葉でもあるのです。

 仏教徒のお母さん。赤ちゃんを佐々井秀嶺師に祝福してもらい、感激に涙ぐんでいました。

ジャイ・ビーム!

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