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昭和50年男『テリー伊藤vs土屋敏男対談』観戦記 その1

『昭和50年男』と『みんなのテレビの記憶』コラボ企画『テリー伊藤vs土屋敏男対談』の現場にお邪魔できたので観戦記を書いてみることに
語りだすと止まらないので短めにいきますっ!
(こちらに動画が公開されているので、構成はこれに合わせます)

R-1『元気が出るテレビのパワーの源はテレビ東京』

最初っからテリー伊藤の右ストレートが炸裂してますね。
普通「元気が出るテレビってどうやって始まったんですか?」って聞かれたら「元々は『元気が出る商事って言う設定で…』と語り尽くされたエピソードから始まるのを想定するものですが、ちゃんとOPラウンドから魅せてくれますねえ。テリーさんのテレ東愛炸裂!
日テレだから偉いとか関係ないところが、権威に媚びない態度で大好きっす。『さる年バンザイ!』で出禁になってから、日曜よる8時の演出を任されるまでの経緯。これテリーさんにしか語れませんよね

R-2『ファンタジー演出』って言えますか?

猿を東京湾にぶん投げておいて、いや海にそっと置いて(笑)
ファンタジー演出って^^;
言えます?
テリー伊藤とは夢を見続けている脳内麻薬ジャンキーなのだ。
いつも夢見てる。当時、まともに前見てなかったもんな(斜視だったし)
そして早速テリー伊藤のクロスカンターが炸裂します。

R-3 テリー伊藤のクロスカウンター


土屋「それが許された時代があるってことですよね」
テリー「あれ、でも、そんなにOKではなかったと思うよ」
この展開すごい!
土屋敏男の持論の中に
「電波少年を見て「あの頃はこんな事できて良かったですね」ってよく言われるけど、あの頃だって許されてたわけじゃなかった」がある。
いろんなインタビューの機会で彼はそう答えてきた。
今コンプライアンスで腕が縮こまっている若者に挑戦せよと。
なのにここで教科書通り、自分の師匠を持ち上げるために日和った展開、思考停止の受け答えしてるパンチを見切って、強烈なクロスカウンターをテリーさんは打ち込むんだよなあ。
「あの頃だって許されてるわけじゃなかった。袋の中に猿入れてぶん投げてるの(最初に否定していた『ぶん投げてる』というワードが自ら出てますね)俺、日本テレビの人に報告してないからね」
これ『報連相はクリエイターの害』を主張している土屋敏男の考え方ですよね。油断してましたね。完全にやられちゃってます。

R-4『制作会社にいたから面白いものが出来た』

いくら話が上手い土屋敏男でも、これを言われちゃ置いてきぼりですね。
土屋さんはバリバリの局員ですから。何を聞かれるか分からないぶっつけ本番インタビューでオープニングブローからここら辺りまで、キラーワードを連発できるものなんですかね?
後ほど話題として出てきますが、テリーさんは企画を24時間考え続けるそうです。
やっぱりこのインタビューも、24時間、どんなことを聞いてくるんだ?どうやって返してやろうかって考えているんだろうか?
それとも反射神経なんだろうか?

R-5 『関西の笑いが微妙だった』

ここらへんテレビの歴史を紐解いてほしいですね。
僕は関西お笑い文化圏で育ったので東京のお笑いの系譜に詳しくないんですよね。築地出身の伊藤輝夫を矜持を感じますね。
この辺でテリー伊藤と土屋敏男のボクシングも両者よく知った手合に入って「制作会社の人間はキャスティングが出来なかった」という思い出話に移ってゆくのですが、その流れに油断した土屋敏男が、この後再び強烈なパンチを食らうことになります。

R-6『みなさんに向けて作っていた』

編集担当が『(テレビってのは)感性を問わないから良い』ってテロップ入れ忘れたな!ダサい
にしても「元気が出るテレビ」をカッコ良い番組と思ってきた若きディレクター土屋とマスを狙っていた総合演出伊藤輝夫じゃ、ここまで見てる景色がちがうんですね。恐ろしいパンチの質の違いです。

見どころいっぱいのインタビュー
なるべく短めに解説してみました。