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自分とは何か?

自分とは何だろう。

私たちは、物心ついたころから「自分らしさ」について教えられる。

自分を大切に。
自分らしくありなさい。
自分のしたいことをしなさい。

はじめて聞いた時は、すんなり受け止めることができた。
「そんなこと言われなくても分かってる。自分のやりたい事をやって生きていくよ」と。

しかし、時が経つにつれ、思うようになってきた。
一体、どこからどこまでが自分らしさなのか。

例えば、私は小さい頃、本を読むのが好きだったが、それは「本当の自分」が先天的に本を読むのが好きだったからなのか、環境や人間関係といった後天的な要因が「本当の自分」を「本を読むのが好きな自分」に作りあげてしまったのか。

それは今となってはもう、わからない。

今持っている価値観や、思考のクセ、感情のクセなど、自分の脳内のよく使う回路は、「本当の自分」に元々備わっていたものだったのか、何かの外部的なきっかけで生み出されて、そういう回路ができていったのか。

きっと前者(「本当の自分」がそうだったから説)は運命論と呼ばれ、後者(外の世界が「今の自分」を作り上げたから説)は因果律と呼ぶのだろう。

これは実は、キリスト教と仏教のような、世界宗教でも意見が分かれているような大問題であり、容易にここで解決できるレベルの話ではない。(ちなみにキリスト教のプロテスタントは予定説を採用する「運命論」であり、仏教は因果応報を採用する「因果律」である)

なので、いち凡人が思いつきで考えてみても、答えが出るはずもない。

こういう答えの出ない問題に直面した時、私がよく使う方法がある。

それは、どっちに転んでもいい考え方をすれば良いじゃないか、というもの。

どちらの説が正しかろうが、どっちに転んでもいい「自分」の定義を見つけることができれば、それは割と「確固たる自分」と呼べるのではないか。

そういう風に考えてみると、運命論にも因果律にも当てはまる「本当の自分」とは「今、この瞬間の自分」になる。なぜなら、運命論を採用するなら、人は生まれてから死ぬまでずっと、本当の自分であり続けるが、因果律を採用するなら、過去や未来といったものは、移り変わりゆく過程の表現でしかなく、「過去を元にして、未来をどう生きていくかを決める力をもつ自分」は、今この瞬間にしかいないからだ。(もちろん、今の自分もまた、少し先の未来に進んでしまうと、「過去の自分」として相対化されてしまうのだが、それでも「今、ここ」という時間軸のなかでだけは、本当の自分であると言える)

なので、

どちらの説が正しくても通用する「本当の自分」とは「今、この瞬間の自分」ということになる。(少なくとも、この思考実験の中では)

この結論はホリエモンが昔、近畿大学のスピーチで、「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」と言っていたのに、どこか通じるものがある。

なので私はいったん、本当の自分の定義を「今、この瞬間を生きる自分」としたい。

この考え方は、「今この瞬間をがんばれる人だけが、長いスパンで見たときに何かを成し遂げられる。なぜなら、目標の達成とは細かく区切ってみると、その時々で頑張ってきた小さなことの集合体だから」という自分の基本的な考え方とも合致して、わりと納得感がある。

また、「今、この瞬間の自分が本当の自分なのだ」という考え方をすると、まるで自分が何かのドラマの主人公になった気がして面白い。

「自分を知る」ことは、「自分を楽しむ」という概念と密接に結びついている気がする。今まで知らなかった新しい自分を、リアルタイムで楽しみながら生きていける人は魅力的だし、そういう人は、運命論が正しかろうが、因果律が正しかろうが、自分らしく生きていると言えるだろう。また、この考え方は、キリスト教と仏教という巨大勢力が生みだした人生の根源的な問いに対する、私なりのアンサーでもある。

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