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本当に優しい人は「優しい人だ」とすら気づかせない

私の個人的な持論ですが、あえて優しさにランクをつけるとすれば、三流、二流、一流の優しさがあると思うんです。

順番に紹介していくと、優しいつもりで何かをやったけれど、相手からすれば迷惑でしかない場合。これは三流です。
次に、優しさで何かをやった結果、相手から感謝された場合。これが二流。
では一流は何かというと、優しさでやったことが、相手から気付かれないくらいに気配りが行き届いていて、その結果、感謝もされない。これが私の思う一流です。

別に二流でも悪いわけじゃないし、むしろ良いんですが、傍から見て感動するレベルの優しさというのは、一流の優しさだと思うんです。なぜなら、そこには「利他の精神」「無私の境地」があるからです。

例えば、目の前に好きな人がいたとしたら、その人に優しくしたくなるのが普通だと思います。でも、その優しさの中に「こんなに私は気を遣えますよ」「こんなにやってあげていますよ」というのが見え隠れすると、なんていうんだろう・・・、傍から見ていて少しだけ萎えるんですよね。なぜなら、そこには「優しくした分、自分のことを好きになって欲しい」という動機があるからであり、「10やってあげたから、10に近いものを返して欲しい」という見返りを期待しているからです。

これは完全に感覚的な話なのでどこまで共感されるか分からないですが、人間って、自分の利益を期待して行動している時は、美しく見えにくいと思うんですよね。これは多分、人間が社会的動物として、周囲と協力することで生物界の中での地位を上げてきた「集団ベースの生存戦略をとる生き物」であることと繋がっていると思うのです。

まぁとにかく、人に感動を与えるレベルの優しさというのは、そういう性質があると思うんですよ。「いやいや、優しくしたこと自体が相手に気づかれないんだとしたら、一体、誰がその優しさを評価するのさ?」となるかもしれないですが、それは傍から見ていた別の人が気付いたり、相手が後になってから偶然、気付くこともあるわけで。大切なのは「自分のことなんかどうでもいい。ただ相手のために何かをしてあげたい」という気持ちでその行為をした、というメンタルの部分だと思うんですよね。そしてそれがふとしたキッカケで見えたとき、人はそこに優しさの灯がともっている事を、心の内で感じる。

多分、これは気遣いとかも似ていて「○○さんは気遣いができる人だなぁ」と相手から思われてたり、言われたりしている時点で、それは完璧な気遣いではない気がします。「今日はなぜか分からないけど、快適な気分だなぁ」と相手が感じているのが、完璧な気遣いができている状態だと思うのです。


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