戦争の美術/美術の戦争について

最初はツイートで終わらそうと思っていたのですが、長くなったのでブログにします。

いうまでもなく、以下の文章は2022年2月24日に始まったウクライナ-ロシア戦争についてのものです。

3月11日からロシアがネットを遮断(国外とのアクセスを切るのだと思います)するとのことで、またtwitterFacebookのプロフィールを変えました。意味が分からないひとは調べてみてください。

今回の出来事は、twitterでも書きましたが、表現に関わる問題をとても多く含んでいると感じ、自分では珍しく意思表明をしました。「ナラティブ」のオペレーションの問題、フレームの設定の問題etc. 今回のプロフィールの変更も、広く視覚表象の問題として読めると思っています。

こういったことのみならず、近代美術発祥の地であるヨーロッパで一見1930年代かと思わせる「戦争」が準備され遂行された故に(言い方は微妙ですが)強い美術的関心を持つ契機となりました。

また、昨年後半から年末年始にかけて、ユーラシア的構想力に持続的に関心を持っていました。タルコフスキーの映画を見直し、キエフのバレエを見、本も何冊か読みました。そういう中であれよあれよと緊張が高まり、「まさかないだろう」と思っていた事態が来ました。素人観測の甘さを痛感しています。

これもtwitterに書いたことですが、近代美術とは、大量死の時代(戦争と大規模事故=原発事故のような)の美的イデオローグです。アフリカ大陸の国境線の直線と、モンドリアンの絵画に出てくる直線は、単に似ているのではない。モダニズム絵画の「純粋化」と、人種の純粋化としての虐殺行為は単に似ているのではない。

現代美術が近代(美術)批判をせざるをえないのは、トレンドだからでも、美術館やメディアが取り上げてくれて「アーティストサバイバル」できるからでも、さらに即物的に売れるからでもなく、上記の認識にあるはずです。理念性を失いキャリアメイクの手法に陥った「アート」、消費者へサービスする視覚エンターテイメント・視覚スペクタクルとなった「アート」に、僕は一切関心をもちません。

自分が「ナラティブ」の外部にいると考えることはできません。人はだれしも何らかの「ナラティブ」の中にいる。例えば僕は恐らく欧米型・アングロサクソン型の「ナラティブ」の影響下にいるでしょう。フォーマリズムを意識した美術とは、まさにそのような「ナラティブ」なのであって、けして無色透明なものではないことは自明です。

プーチンが言いたいことの、一定の部分は、特にアングロサクソン型の「ナラティブ」だけで世界を覆うな、ということなのでしょう。戦争という発露は一切肯定できないことは当たり前です。あわせて、シリアやコンゴ、カンボジアといった場所でも起きていた出来事に、こういった関心を示さなかった自分自身の意識については、内心忸怩たる思いがあります。

同時に、すぐに「日本の固有性」などに逃げ込む退路もまた、すでに満州事変並みの悪質さを持つことも確認しておきます。プーチンの主張は姿を変えた「八紘一宇」です。こんなものを今更反復するのは悲劇と喜劇を超えて惨劇です。行き詰っている現代美術をさらに未来的=22世紀的に組み替えるには、改めて近代-批判から立ち上げ直す必要があるのだと思います。漠然としたイメージは、2019年の殻々工房での個展に際し書いた文章や昨年の個展会場M-galleryでの対話を通じて模索しています。


個人の意思表明になんの意味があるのか、という意見はよくあり、僕もその種の感覚はわかります。そもそも僕は「運動」に馴染めない。同時に、今回むしろはっきりしたのがsnsやネットでの発信・振る舞いが、決定的に情勢に影響をもっているし、そのことが明確に政治や戦争に組み込まれている、ということです。

ウクライナはこのような情報の発信を意図的に行い、そしてかなりの成功を収めている。僕は前提としてプーチンの戦争に反対し、ウクライナ側に立つ立場ですが、これはウクライナを無謬とみることを意味しません。

ごく端的に、snsやネットでの発信は今の戦争に加担しています。従って、こういった動向には一切触れない、そもそもsnsもやらない、という考えは妥当です。怒りをもって沈黙している方は多くいると思います。

そのうえで、僕はネットに多くを負ってきました。単に美術家としての活動の足掛かりにしてきたというだけでなく、1999年に初めて旧型iMacでモデムを介しネットにアクセスしたとき以来の希望を、いまだに自分の大事なコアに置いています。

かつて自主企画展として行った「組立」という企画でお招きした、ある小説家の方が「世界の肯定的な力に奉仕する」とおっしゃっていたことを覚えています。僕が1999年以来持っている、世界/ネットの「肯定的な力」には加担したい、そう考えています。僕の意図が果たして「肯定的」でありえているのかは、もう少ししないとわからないのですが、画家は認識者ではない(天使ではない)。飛び降りる以前から、僕は地上で生きている。

戦争が起きている中での美術は、美術に直ちに異なる戦争を準備させるのだと思います。戦争のイデオローグではない美術をいかように立ち上げ直すか、この戦いは未完です。僕は既に参戦していたのです。今更ながら、改めて。


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