神がいれば人はいらない、という誤解

「12の誤解」からの学びです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神であり、人でもあるお方が様々な方法で人を愛された様子から、愛について学ぶことができます。

イエスは人々を教えました。
癒しました。
彼らの上に手を置かれました。
共に泣かれました。
家を訪れました。

そしてゲッセマネの苦しみの時には三人の友に一緒に支えてくれるように頼んでいます。
'「ああ、恐れと悲しみのあまり、今にも死にそうです。ここを離れずに、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」 '
マタイの福音書 26:38

イエスはこの地上で、直接的、実践的な憐みと愛によって、ニーズを満たされたのです。

キリストの受肉は、人々はいらない(人の助けはいらない、神のみで十分だ)という考えがいかに意味のないものであるかを明らかにします。

神が人となられた時、神ご自身が人々を必要としたのですから。

「神だけで十分」という教えが不十分なのはこのためです。

この思い込みの主唱者が教えるのは、イエスが間違いなく神ではあるが、ほとんど人間ではないキリストです。

それは聖書が教えるキリスト、つまり完全に神であり完全に人であるキリストとは異なります。

そのため彼らは、キリストが私達にくださるものを、神の直接的介入のみに限定してしまいます。

彼らの教えるキリストは聖書のキリストではなく、不十分なキリストなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖書は神が個々のニーズを満たす方法については特定していません。

直接介入されることもあれば、人を通してなさることもあります。
人々の愛の行いよりも、神の愛の行いの方がだとは言えません。

・・・

神はこの世を大変愛されたので、ひとり子を私たちに送られました。

どんな方法であれ、誰を通してであれ、神が望むやり方であなたに触れていただいてください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


僕自身、神からの直接の助けが一番で人の助けは二の次、というイメージが結構ありました。

でも実際は、多くの場合、人を通してその中の愛を通して、神の愛が分かってきます。



神の手段は無限であり、様々な方法を通して、今も自分に神が語りかけてくれているということに気付きました。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?