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【キリストによって遣わされた者たち】240114礼拝メッセージ

「キリストによって呼び寄せられ遣わされた者たち」ルカ6:12ー16
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 13節
朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

今日のテーマは使徒です。

使徒とは、「遣わされた者」という意味があります。
遣わされた者。
選ばれて使命を与えられて派遣されていくのです。
イメージとしては使徒とは大使のようなものです。

大使とは、自分の国を代表し、外国との友好関係を築き、自分の国の文化などを伝えていく人です。
例えば、アメリカやオーストラリアなど外国には日本大使館というものがあります。
そこには日本の大使が住んでいて、外国の中で日本人代表として発言や行動をしていき、友好関係を良くしていき、日本の良さを伝えていく人たちです。

私たちキリスト者は、単に、毎週日曜に教会通うことだけが目的ではなく、キリストによって呼び集められ、今度は教会から私たちの日常に、、、それは家庭や職場、学校にキリストの証人として、大使として遣わされていく、、、これが私たちキリスト者の生き方なのです。

今回は使徒をテーマに3つのポイントから一緒に見ていきたいと思います。

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1つ目のポイントは、使徒とは、多種多様な人たちがいる、という点です。

ある時キリストは祈るために山に行かれ、そして朝になると弟子達を呼び寄せました。
ルカによる福音書/ 06章 12節
その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。
13:ルカによる福音書/ 06章 13節
朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

当時キリストの周りには70人くらいの弟子達がいたと言われています。
それだけたくさんいた弟子達の中からキリストは12人を選ばれて、その12人を使徒と名付けられたのです。
どうして12という数字なのか。

昔モーセがユダヤ人の人々をエジプトの地から救い出して、約束の地カナンまで長い旅をしました。
その旅の途中、モーセはシナイ山に登って神から掟、十戒を授かりました。
そしてこの十戒に従って生きる神の民を作るべく12の部族に分けて整えていきました。
だからユダヤ人は12の部族によって作られているのです。
その12の部族になぞらえて、イエス・キリストはこの時弟子の中から12人をお選びになったのです。
モーセがシナイ山に登ったように、イエス・キリストはここで山に登られ、モーセがしたことを改めてもう一度やり直されました。
何度も何度も懲りずに神に背いていた民達を救いに生かすために、神の子であるキリストご自身がここで改めて12人を選ばれたのです。
しかも今度はもうやり直す必要のない方法で、救いの業の完成に向かって12人を選び、使徒として名付けられたのです。

では新しい神の民を作る土台となった人の顔ぶれはどのようなものだったでしょうか。
ルカによる福音書/ 06章 14節
それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
15:ルカによる福音書/ 06章 15節
マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
16:ルカによる福音書/ 06章 16節
ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

皆さんはどれくらいこの人たちの事を知っているでしょうか。
ペトロと名付けられたシモンは、思い立ったらすぐに行動する人でした。
すぐにカッとなってしまう怒りっぽい性格を持っていましたが、この12使徒のリーダー的存在で目立った人です。
アンデレはペトロの弟です。
兄とは違い、あまり目立つ働きをしていませんでしたが、兄ペトロをキリストの元に連れて行ったり、男性だけでも5000人もいる中で、2匹の魚と5つのパンを持っている少年をキリストの元に連れていき、キリストがパンと魚を増やす奇跡をしたきっかけをつくるなど、肝心なところにおいて大きな役割を果たしていました。
私たちの教会で月一で活動しているアンデレ活動というのは、このアンデレのように、未信者の方をキリストの元に連れていくために、伝道的な内容の印刷物を毎月送っているのです。
ヨハネは直感力を持っていた人ですが、若い頃は短気で「雷の子」という名前をつけられたような人でした。
トマス、バルトロマイたちは知的な人たちであったと言われています。

この12使徒の中で私が特に面白いなと思うのは、マタイと熱心党シモンがいることです。
マタイ、、、この人は以前の箇所に出てきた取税人でありました。
取税人とは、ユダヤ人を裏切ってローマの手先となり、ローマに代わってユダヤ人から税金を集めていた人です。
しかもローマの規定以上に税金をとって、その利益は自分の懐に入れていた人たち。
ユダヤ人から見れば裏切り者、売国奴です。

一方熱心党とは、過激派右翼みたいなもので、ユダヤの国を過激に愛する人たちです。
彼らは自分の国を愛するが故に、国を裏切る人たちを許せない、場合によっては殺してしまえばいいと思うほどの思想の持ち主です。
それほどまでに熱心に自分の国を愛する人。

なので、今まで売国奴であった取税人マタイと、国を裏切る者を許さない思想の持ち主であった熱心党のシモンという全く正反対の思想の持ち主が、たった12人しかいない使徒達の中にいたのです。
普通に考えたら、この二人は一緒にいることはできないと思います。
大喧嘩してどちらかがこの集団から出ていくかと思います。
しかし彼らが、途中で喧嘩別れして、使徒から外れたという記述は聖書にはありません。
全く思想が違う彼らが共に生活できたというのは、彼らが人格者であったというより、キリストが彼らを愛して集めたのであり、キリストが中心となっていたからこそ、思想も生い立ちも全く違う人たちが一緒に生活できたと思うのです。

これは私たち教会にも通じることだと思います。
私たちもここにきて礼拝をする、教会に集う。

ここに集っている人たち、、、実に多種多様です。
外交的な人、内向的な人、よく喋る人、寡黙な人、几帳面で細かいところまで気が付く人、小さなことは全然気にしない人、気が早い人、穏やかな人、ずっと日本に住んでいる人、外国で暮らした経験のある人、また右翼的な人、左翼的な思想を持っている人もいるかもしれないません。
まさに多種多様です。
一見すると共通性はなく、自発的に一緒に集まることはまず無いと思うのです。
しかしそんな私たちが毎週共に一緒に礼拝を捧げることができるのは、キリストが私たちを選び救って下さったからです。

去年9月に、日本伝道会議が岐阜県で行われました。
超教派の福音主義の人たちが集まり、これからの伝道について共に考えていくという趣旨の集まりです。
そこで、ある説教者が言いました。
「私たちは居心地の悪い教会でなければいけない」と。
一瞬みんな?になりました。
居心地の悪い教会?そうじゃなくて居心地のいい教会を目指すんじゃないの?と。

しかしこのメッセンジャーが言いたいことは、居心地のいい教会作りはきちんと目指していく、それは大前提。
ただし、キリストによって救われて集う教会というのは、自分とウマが合う人だけがいるわけではない。
現実として自分とは趣味や好みが全く違い、合わない人、マタイとシモンのような、自分とは対照的な思想や性格を持っている人が教会にいるのです。
しかしこのことは、教会がキリストによって選ばれ集っている証拠である、と
だから伝道が進むにつれ、多種多様な人が集ってくる結果、ある意味で教会が居心地が悪くなるのは、きちんとキリストによって救われて様々な人が集まっている聖書的な教会である、とそのメッセンジャーは言ったのです。

本当にそうだと思います。
12使徒のように個性が強く、私たちは全く違った性格、思想を持った人たちがキリストに呼ばれてここに来ているのです。
単なる気の合う仲良しグループなのではないのです。
自分にとっては苦手と思う人も、ウマが合わない人もいる。
しかしそれはキリストによって救われ呼び集められた多種多様な人が集う教会の証拠でもあるのです。

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二つ目のポイントは、使徒とは、裏切り者がいる、ということです。

ルカによる福音書/ 06章 16節
それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

12使徒のなかに裏切り者となったユダがいました。
ユダは三年あまりキリストと共にいて、最終的にキリストを裏切り、わずか銀貨30枚、当時一人の奴隷の値段で祭司長達の手に売り渡しました。
そのようにキリストを裏切った彼がすでに使徒の中に入っていた。
おそらくキリストは、ユダを使徒として選んだ時点で彼が裏切ることは知っていたでしょう。
ではなぜキリストはわざわざ裏切るユダを選んだのでしょうか。
これについては聖書にははっきりと記されていないので、人間である私たちには最終的には分かりません。
裏切り者のユダをキリストが使徒として選んだ、、、それは神の、そしてキリストの不思議な御業としか言えないと思います。

ただし一つ言えるのは、キリストは裏切るユダを最後の最後まで愛されたということです。
キリストはユダに悔い改めのチャンスを与えました。
最後の晩餐の席で、キリストが「この中に私を裏切る者がいる」と言われた時、使徒達は深く心を痛め、「先生、まさか私ではありませんよね」とそれぞれに言い出しました。
そこではユダも同じように「先生、まさか私ではありませんよね」と言います。
その時キリストはなんと言ったか。

マタイによる福音書/ 26章 25節
「それはあなたの言ったことだ。」

これは、ユダだけにわかる言葉で、キリストは彼に悔い改めを促しておられるのです。
人が悔い改めをする場合、みんなの前で自分の罪を指摘され、恥ずかしい思いをさせられた時、人は本当の意味で悔い改めるというのは残念ながらほとんどありません。
そういう場合人は、悔い改めるどころか、しらをきり続けることが多いと思うのです。
もしキリストがここでみんなの前で、このユダが裏切り者だ、あなたは悔い改めよ、と言ってもユダはますます心を頑なにしたでしょう。
だからキリストはユダに、「あなたの言ったことだ」と言うことによって、あからさまにみんなの前でユダの裏切る罪を指摘せず、ユダに悔い改めて思い直して欲しい、と願いを込めて言ったと思うのです。

もし私たちが、キリストの立場で自分が12使徒を選ぶとしたら最初から裏切る人をわざわざ入れるでしょうか。
そもそも選ぼうとは考えないと思います。
もし仮に選んだとしても、どうせこの人は裏切るから、、、と冷たく接するか、途中で関わらないようにすると思うのです。
しかしキリストはユダを最後の最後まで愛されたのです。
悔い改めて思い直すように招き続けたのです。

ここで思うことは、果たしてユダだけがキリストを裏切ったのか、ということです。
ユダだけがキリストを見捨てたのか。
いや、ここにいる12使徒全員が結局は、キリストが捕らわれた時、みんな逃げ出したのではないか。
ユダ以外の使徒達もキリストが兵士に捕らえられ、自分達の都合が悪くなったら見捨てていきました。逃げ出したのです。

このように見ていくと裏切ったのは決してユダだけではない、他の12使徒も、そして私たちもキリストを裏切ることがある。
未信者だらけの親戚の集まりや職場などで、自分がキリスト者と言うのが都合が悪い時、つい自分がキリスト者であることを隠してしまうような、そんなキリストに従い続けられない弱さを持っている。
しかしそんな弱い信仰の私たちをもキリストは知っていて、それでもなお愛し選んで下さったのです。

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ではどのようにしてキリストはこの12使徒を選ばれたのでしょうか。
3つ目のポイントは、使徒とは、キリストが徹夜の祈りによって選ばれた者たちである、ということです。

ルカによる福音書/ 06章 12節
その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。

キリストは山に行って祈られました。
そして夜を徹して神に祈られたのです。一睡もせずに祈られた。
これはおそらく、キリストが「よし、今日は徹夜祈祷するぞ」と意気込んで祈ったというより、12使徒を選ぶために神と会話をし、その祈りに集中するが故に、結果的に夜から朝になっていたのではないかと思うのです。
私たちも何か重要なことを決める時というのは、ものすごく考え込み、気づいたら長い時間がたっていた経験があるのではないでしょうか。

キリストはよく祈られていましたが、徹夜で祈る姿が聖書に書かれているのは二つです。
一つが十字架にかかる前のゲッセマネでの祈りです。
十字架にかかるというのが、いかに厳しい出来事であるかということをご存知であったキリストは、出来るならそうしたくないという気持ちを強く持っていて、神に夜を徹して祈られたのです。
しかし徹夜の祈りを通してキリストは、神の御心に従い通され十字架の道に歩いて行かれました。
十字架に向かうための祈り、それ程重要な時にキリストは徹夜の祈りをしたのです。
それほど重要な徹夜の祈りがもう一つ記されているのが、この12使徒を選ばれた時だったのです。

12人を選ぶためになぜキリストはそれだけの時間がかかったのでしょうか。
それは一癖も二癖もある使徒達、そしていずれ裏切るであろう使徒達のために一生懸命祈られていたからです。
ペトロも、マタイも、シモンも、そしてユダも、それぞれ一人一人を丁寧に祈られた。
「どうか彼らの信仰が無くならないように」「どうかこの人達が互いに支え合い、愛し合い、赦しあっていくことができるように」
と夜を徹して祈られたと思うのです。

ペトロの弱さを十分に知っておられたキリストが、どんなにペトロのために祈られたでしょう。
裏切るユダのためにもキリストはどんなに祈られたか。
彼らがどのようなところで失敗し、つまずくのかということを分かっていたと思うのです。
そんな彼らのためにキリストがじっくり時間をかけ、そしてどれだけ想いを込めて祈られたかと思うのです。

この「夜を徹して」という言葉は、ある学者が「医師が徹夜で患者を看病する時に使われる言葉」だと説明していました。
当時は、医師が看護も兼ねていたようで、徹夜で患者の病状を見守ることがあったのです。
その時に、この「夜を徹して」と訳された言葉が使われたのです。
医師が患者を暖かく見守る眼差しで夜通し見るように、キリストは12使徒たちに向かって、愛の眼差しをもって想いながら夜通し祈られたのです。

キリストが12使徒を選ばれる際にこれだけ想いを込め、夜を徹して祈られたのなら、私たちを救い選ぶ時、キリストはどれだけ時間をかけて祈られたでしょうか。
「ペトロやユダが徹夜なら、私は30分くらいで十分大丈夫」と思うでしょうか。
誰が「私はペトロより長い祈りは必要無い」と言える人がいるでしょうか。
誰が「私は裏切ったユダよりもだいぶマシだから短い祈りでいい」と言える人がいるでしょうか。
このように考えていくと、キリストが12使徒を選ぶときに徹夜して祈られたように、私たちを救いに導く時にも、使徒と同じように、いやそれ以上にキリストは想いを込めて、そして夜通し時間をかけて私たちのためにとりなしの祈りをして下さったと思うのです。
「どうか信仰がなくならないように」「互いに愛し合うことができるように」と。
だからこそ、私たちは今こうして信仰生活を守れているのだと思うのです。
それはたとえ弟子達のように、一時的に離れている時があったとしても、キリストはそれも知っていて、いつか戻ってくるように、そのようにして私たちのために、そして今教会から離れている人たちのために祈って下さっている。
それほどの祈りが、愛が私たちに注がれているのです。
このキリストの愛のある祈りによって、呼び集められたのが私たち教会なのです。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 13節
朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

今日は使徒というテーマで共に御言葉を見てきました。
1つ目、使徒とは、多種多様な人たちが集っていること
2つ目、使徒とは、裏切り者がいる、ということ
3つ目、使徒とは、キリストが徹夜の祈りによって選ばれた者たちである、ということです。

この使徒の人たちを見れば見るほど、教会に集っている私たちとどこかで似ていると思うのです。
個性豊かで、癖が強く、思想も全然違い、生い立ちも何もかも違う人が不思議とここに集められている。
それはキリストが夜を徹して祈って選ばれたからです。
この祈りに支えられ今日も私たちは集っている。

キリストは今日も言われるのです。
「あなたがたは、気まぐれでここに来ているのではない。
私があなたを選んだ。
長く長く祈って選んだ。
そしてあなた達を、今度はそれぞれの日常に遣わす。
私の使徒、復活の証人として遣わす」と。

だから私たち教会は、キリストの祈りよって選ばれていることを改めて感謝して受けとめ、遣わされた所でキリストの証人として日々歩んでいこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、あなたは私たちを選び招いてくださいました。
それによって、私たちはここに集っています。

私たちを選ばれる時、あなたはどれだけ祈られたでしょう。
あなたの祈りに支えられて私たちは今ここにいることを思います。

あなたに愛され祈られた者として、今度は私たちが日常の生活に遣わされていき、あなたのことを証していくことができますように私たち教会を用いていて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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