見出し画像

【しかし、お言葉ですから】231015メッセージ

「しかし、お言葉ですから」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
イントロ 言葉
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 05節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

今日のテーマは言葉です。
私が昔通っていた小学校の校長室前に額が飾ってありました。
私はその額に飾ってあった言葉が印象深く、今でも記憶に残っています。
そこにはこのように書かれていました。
「たった一言が人を生かし、たった一言が人を傷つける」

落ち込んだ時に友人の一言でどれだけ励まされ、慰められることがあるでしょうか。
また、誰かの何気ない一言によって非常に落ち込むこと、傷つくことがあります。
このように言葉とは大きな力を持ちます。

私たち人間のたった一言でもそれだけの力があるなら、神の言葉、キリストの言葉にはどれだけの力があるでしょう。
自分が何をしても全く上手くいかない時、キリストが聖書を通して私たちに言葉を与えてくださる。
最初は気が進まないかもしれません。
現実を見たら、御言葉を信じるのが難しい、、、そう思う時があります。
しかしキリストの言葉に従う時、私たちは経験したこともない大きな祝福を受けるのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
どこでキリストの言葉は言ったのか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
1:ルカによる福音書/ 05章 01節
群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとき、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた。
2:ルカによる福音書/ 05章 02節
イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3:ルカによる福音書/ 05章 03節
イエスは、そのうちの一そうであるシモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆を教えられた。

キリストは普段、会堂で説教をし続けられました。
しかしこの頃周りの人たちは、会堂だけでなく、キリストがおられる場所であればどこにでも、キリストの語る言葉を聞きたいと思って押し寄せてきたのです。
群衆が神の言葉を聞こうとして」。
人々がキリストに押し寄せてきたのは、世の中のちょっとした役にたつ言葉とか、先人の知恵みたいな人の言葉ではなく、世の中とは異質な存在の言葉、神の言葉を聞こうとして非常に多くの人々がキリストの元に押し寄せてきたのです。

ゲネサレト湖、これはガリラヤ湖の別名です。
キリストはこの岸辺に立つことすらもできないほどにたくさんの人が押し寄せてきたのです。
あまりに人気がありすぎたためです。
このままだと群衆に押されて湖に落ちてしまう危険性があります。
そこで、近くにあった2艘の船、そのうちの1つはシモンペトロの船であり、それに乗って、岸から少し離れたところまで漕ぎ出してもらい、その船の中から人々に向かってキリストは神の言葉を語られたのです。

人の話を聞く時というのは、やはり一番いいのは、その人の間近で聞くことです。
今のように、マイクや拡声器などがない時、遠くだとどうしても聞こえずらい。
ある説によると、キリストがわざわざ湖から喋ったのは、湖で話すと声が反射して声が大きくなったからだろう、というのもあります。
ただし、やはりその人の言葉を正確に聞き取るには、一番近くで聞くことがいいのです。
ここでは岸から少し離れて船に乗っているキリスト、そして岸辺で熱心にキリストの言葉を聞こうとする群衆がいる。
その中で、特等席、キリストがいる船の中で一番近くで聞いていたのがペトロなのです。

皆さんがキリストの話を間近で聞けるとするならどう思うでしょうか。
ライブならS席です。
群衆もあそこで聞きたいなぁと思っていたに違いない。
しかしペトロはこの時、自らキリストの言葉を聞きたいが故に、特等席にいたわけではありません。
群衆と違って、進んでキリストの言葉を聞こうとしたわけではないのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
いつ言葉を言われたのか 漁に何も収穫がない時 人生の虚しさ、仕事の終わり
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 05節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。

ペトロがキリストの言葉を聞いた時というのは、働き終わった後でした。
しかも一晩中働いていて、なんの収穫もなかった時。
夜通しです。徹夜です。
たとえ彼がどんなに若くて、たくましい屈強な体であっても夜通し働けば疲れ果てるものです。

もし夜通し働いても、そこで魚が取れるんであればまだ報われる気がします。
肉体的には疲労があっても、精神的には救われます。
しかしこの時は夜通し働いても何も取れない。
そこにどれだけの疲れがあったでしょう。
虚しさがあったでしょう。

私たちもこの労働の疲れというのは、程度の差はあれ知っていることだと思います。
仕事で一生懸命働いても、全く成果が上がらない。
営業しても全く契約が取れない。
どんなに集客しても人が集まらない。
みんなに断られる。

家庭の問題を抱える。
巷で言われている良いと言われているものも、散々試す。
しかし一向に良くならない。
何度も何度も試したけど失敗に終わる。
人間関係の問題で、こちらから色々とアプローチしても相手から全く良い反応がかえって来ない。

昔、私が飲食店の店長をしていた時、上司がよく言っていたのは、「売上は全ての疲れを癒す」と言いました。
どんなに長時間働いて体を酷使しても、売上という成果があれば疲れは吹っ飛ぶ。
売上が自分を慰めてくれる。
しかし裏を返せば、もし売上もなかったら、成果がなかったら、その時の疲れはどれだけ大きいものか。
ペトロの、夜通し働いても一匹の魚も取れないその時の気持ちは、私たちも知るものだと思うのです。

おそらくそのような状況のペトロには、神の言葉を自ら進んで聞こうとは考えてはいなかった。ペトロはこの時早く帰って寝たかった。
神の言葉である説教を聞くのは、もっと時間にも体力的にも余裕がある時に聞けば良い、と。
以前キリストは、確かに自分の妻の母を癒してくれた良い先生には違いない。
しかしここでの話は別だ。
キリストの有難い言葉は会堂だけである。
私の職場においては関係ない。
いくら優しいキリストでも、自分の徹夜の虚しい仕事の労働のなかで、何も成果が出ず立ちすくんでいる自分には関係ないと思うのです。

しかし私たちの何をしても全く成果が出ない、虚しく感じているところにキリストが来られるのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
どんな言葉をかけたのか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
4:ルカによる福音書/ 05章 04節
話し終わると、シモンに、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われた。

キリストはそんなペトロに言うのです。
さあペトロ、これからもう一度漁をやろう、沖へ行こう、と。
これは漁師の目から見れば愚かです。
あまりに場違いな発言です。
当時の漁は夜やるものであり、魚は基本的には水深が深い沖ではなく浅瀬にいるので、そこで漁をするのが一般的でした。
ペトロから見れば、
「もう散々試した、あれもこれもやった。それでも魚が取れなかったのに、なぜそれでもまたやらなければいけないのか。」と呟けたと思うのです。
あなたは大工の息子。私は漁師である。
何年もやっているプロの漁師である私が夜通し働いてもダメなのだから、もう今日は意味がないのだ、と。
「先生、また次の時にしましょうよ」といくらでも断れると思うのです。

しかしペトロは漕ぎ出しました。
その理由はただ一つでした。
5節 しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう

お言葉ですから、、、原文を見ると「あなただけの言葉に賭けてみる」という意味の言葉です。
あなたが語った言葉、、、それは私が語ったのではない、誰か漁の専門家が言った言葉でもない、キリスト、あなたの語った言葉に賭けてみるというのです。

おそらくペトロは夜通し、何度も何度も頭の中で様々な声を聞いたでしょう。
過去の自分の成功体験で、魚が捕れなかった時でも途中から何匹かとれた記憶であったり、自分に漁のことを教えてくれた師匠の言葉であったり、仲間漁師の助言の言葉が。
しかしどれもうまくいかなかった。

私たちも、仕事や家庭の問題に取り組みます。
そこには、過去に自分が上手く切り抜けた体験や、先輩や先生が教えてくれたこと、そして本などからも様々な言葉を聞いて取り組みます。。
しかしどの言葉を信じてやってみても上手くいかない。
何度もやっても成果が上がらないのです。
しかしそこでキリストの言葉が響く。
「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」
もう散々手を尽くしたからこそ、キリストの「沖へ行きなさい」という言葉にしか頼りざるを得なかった。
この一点に賭けたのです。
もはや自分の思いも信じれず、もうあなたの言葉にしか賭けられない、だからもう一度沖へ出て行きますと。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この言葉を言った後どのようになったのか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
すると結果はどうなったでしょうか。

6:ルカによる福音書/ 05章 06節
そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7:ルカによる福音書/ 05章 07節
そこで、もう一そうの舟にいた仲間に合図して、加勢に来るように頼んだ。彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった。

ペトロは驚くべき経験をしました。
いつもの量が取れたのではありません。
おびただしい魚、それは一艘だけでは抱えきれないほどの、沈みそうなほどの重い量でした。

その状況を目の当たりにした時ペトロは言いました。
8:ルカによる福音書/ 05章 08節
これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
なぜ罪人の告白をしたのか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
なぜペトロはこのような言葉を言ったのでしょうか。
普通なら、
「先生、あなたは素晴らしい力をもったお方だ。どうか私のそばにいてください」
と言うのではないでしょうか。
こんな奇跡を起こす先生と一緒にやっていけば、自分の生活は安定するじゃないか、一山儲けることができるぞ、そのような思いになる。
だから普通は「イエスよ、私と一緒にいて下さい」と言うのではないだろうか。

しかしペトロは言うのです。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」
キリストよ、あなたが私のそばにいたら困るのです、一緒にはいてほしくないのです、と。
なぜなら自分は罪人だから。
あなたの圧倒的な力を前に、聖さに触れた時、自分がどれだけちっぽけな存在か、あなたの側にいたらたちまち滅んでしまうことがわかる、、、だから私から離れて下さいと。

もし網に取れた魚の量が少しであればペトロは、私から離れて下さいとは言わなかったと思うのです。
全く取れない時に、10匹とかでも取れたら十分にすごいことになる。
感動したと思うのです。
しかしそれは、所詮自分の予想範囲内の中での奇跡なのです。祝福なのです。
このくらいとれたらいいな、とかこのくらいのことが起こったら感謝だな、と願う。
ただそれは自分の予想の中でおさまる神の祝福にしか過ぎません。

しかしキリストの与える祝福であり恵みというのは、自分の船が沈みそうなほどのおびただしい量なのです。
それは自分の命が危うくなるほどの大きな祝福です。
それほど大きな量を与えるお方が自分の目の前にいると知った時、
「ああ、あなたは簡単に私の命をもとられるお方である、このお方が側にいると私なんぞ一瞬に船と共に沈んでしまい、死んでしまう」
そう思わざるを得ないと思うのです。
キリストの与える祝福があまりに大きすぎるから。重すぎるから。
だから、罪人である私から離れて下さいと、悔い改めをする。

私たちは悔い改めというと、誰かから罪の指摘をされて、あ、私は本当に罪人だと悔い改める、そのようなイメージをします。
もちろんそういうこともあるでしょう。
しかしここでは、神の祝福を見て悔い改めに至ることがあるのです。
祝福は良いもの。しかしそれがあまりに多いと、人は恐れを感じ悔い改める。

私自身もそうでした。
何回かお話はしてますが、ずっと仏教徒であった祖母が入院してそろそろ危ない状況の時に、伝道しようとお見舞いに行った時はあまり意識はなく、そんな時に伝道しても、意味がないんじゃないか、自分の言葉が空しく響くかもしれないとどこかで思っていたのです。
しかし実際に伝道したら、福音を伝えたら、その時祖母は頷いたのです。信仰告白をしたのです。
今までは祖母にキリスト教のことを理解して欲しいと働きかけても何も収穫がなかったのに、この時伝道をしたら、網を降ろしたら、救われたのです。感覚としては救われてしまった。
私はその現状を目の当たりにした時、どこかで恐ろしい感覚がありました。
自分の目の前に神がおられることを知ったからです。
目の前で聖霊が、神が、キリストが、祖母に働きかけて、信仰告白へと導き、命を救ってくださった。
私はこの時、祖母が信仰告白したという嬉しさもありましたが、何よりも、
「ああ主よ、あなたの救いの力を少しでも疑ってしまった不信仰な私をお赦しください」
という思いの方が強かったのです。
人が救われるという祝福を嬉しがるより、悔い改めの方が先にきたのです。
恐れの方が先にあった。
人の命が救われるという収穫の重さがあまりにも大きいからです。
命の重さを知るからです。

私たちの信じる神は畏れ多い。
それは裁きの怖さもありますが、何よりも神の与える祝福があまりにも多過ぎるから。
そう、人は、自分の予想をはるかに超える重い神の祝福を見る時、人は悔い改めざるをえない。

ペトロはキリストのことを「主よ」と言います。
さっきまでは先生と言っていたのが主よ、と変わっています。
「先生」とは人が尊敬している人に対して言うものです。
しかし「主」というのは人が神に対して使う言葉。
ここでペトロはキリストのことを、今までは人であると思っていたのが、神であると分かったのです。
だから恐れた。

10:ルカによる福音書/ 05章 10節
シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11:ルカによる福音書/ 05章 11節
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

キリストはペトロにいうのです。
恐れることはない、と。
罪人のペトロに対して、もう神である私を恐れることはない、と。
なぜそう言えるのか。
それはキリストがペトロの罪を赦すからです。
「私は、あなたの罪を全て引き受け、それを背負って十字架にかかって死ぬ。それによってあなたの罪は赦される。だから神である私をもう恐れることはない」と。
聖い神であるキリストが、離れようとするペトロをなおしっかり捕まえて下さるのです。

そしてこう言われるのです。
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
人間をとるの「とる」という言葉は、生け捕りするという意味があります。
魚を取る時は、人間が魚を食べるために捕まえるので、とったら魚を殺します。命を奪います。
しかしここでは生け捕りをすると書いてある。
これは、戦争で人を生かしたまま捕虜にするように、捕まえた人の命を奪うためではなく、人を生かすため、命を与えるために捕まえるのです。
つまり人をとる漁師というのは、これからあなたは、罪によって滅びゆく人を、キリストの十字架と復活による永遠の命に生かすため、福音を伝え続ける生涯を歩む者になる、そのようにキリストはペトロを招いてくださったのです。

今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
このキリストの語りかけは今日も私たちに響いています。
それは牧師だけではありません。伝道師だけのことでもありません。
キリストによってしっかり捕まえれて、新しい命を与えらえた私たち一人一人に
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
とそう言われるのです。

ただし自分の姿を見る時に、自分には何ができるだろうか、そんなことはとてもできないと思うかもしれません。
何より私自身がそう思う。
親族を救う時にも、疑ってしまうような、そんな弱い自分です。
そんな自分の姿を見るととても、人間をとる漁師なんてできないと思ってしまう。
でも「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」このキリストの呼びかけに私たちはこのように答えていくのです。

「しかし、お言葉ですから」と。

私にはそんな力がない、何度家族にキリストのことを伝えようとしても全く成果がないように見える。
しかし、お言葉ですから、今一度網を投げたいと思う、そのように言えるのです。
自分の姿を見て自信持って言えるのではないのです。
精一杯のことをやっても、全く何もとれない、自分の力の無さを、いやというほど思い知らされる時にキリストの言葉が、御言葉が響くのです。
その時私たちは言うのです。
「しかし、お言葉ですから」
そのように告白しながら、今日も網を降ろしに出ていく、、、それがキリスト者の生き方なのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・結語 しかしお言葉ですからと言える教会
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 05章 05節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

ペトロは夜通し働いたのに何も魚は取れませんでした。
彼は散々手を尽くしても何もできない状況であったのです。
しかしそこでキリストが、沖へ漕ぎ出し、網をおろしなさいと言われた時、現状を伝えた上でペトロは言うのです。
「しかし、お言葉ですから」

教会は、この言葉に生きていきました。
伝道が難しい状況の時、全くうまくいかない時、散々試して成果が取れない時、沖へいって網を降ろしなさいと語られる。
その時、困難と思える状況の中でも教会は言い続けたのです。
「しかし、お言葉ですから」
そのようにして網を降ろし続けた結果、私たちはキリストに出会い今ここにいるのです。

現実は難しい状況かもしれない。
だからこそ、キリストの言葉に賭けて「しかしお言葉ですから」と告白しながら今日も網を降ろしに行こうではありませんか。

祈ります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
祈り
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天のお父様、私たちは神であるあなたの前では滅んでしまう罪深い者です。
それを知るのは、単に私が罪人であると指摘されたからではありません。
あなたのあまりにも重い祝福を目の前にした時に感じたからです。

しかしあなたは私たちに、十字架の赦しがあるから恐れることはない、と言われます。
そして私たちを人間をとる漁師にすると言われます。

自分たちの目から見たらとてもそのようにできるものではありません。
私たちは伝道することを恐れ、怖気付く信仰の弱いものです。
しかし、あなたのお言葉ですから、と、自分ではなくあなたの言葉だけを頼りに歩んでいきたいと思います。
どうぞその信仰を私たちにお与え下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?