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【短編小説】最悪の一日

《約4400文字/目安10分》


 いい朝だ。

 まぶたは軽く、すっきりした目覚めだった。

 時計を見てみると、三時だった。

「……は?」

 俺は焦って体を起こし、横の窓のカーテンを開けた。外は雨が降っていて、薄暗かった。曇り空だから暗いのであって、夜ではなさそうか。

 どうやら、午後のほうの三時に起きてしまったみたいだ。

「あぁ……寝すぎた。俺の日曜日がもう終わる……」

 俺はカーテンを閉めた。少し、涙が出そうだった。

 憂鬱な気分だ。

 俺はベッドから起きてリビングのソファに腰かけた。打ちのめされた心に反して、やけに軽い体だった。

 今日はせっかくの日曜日だというのに、今日もやってしまったか。
 明日は仕事か。もう明日は仕事か。明日の仕事のことを考えるたびに空気が重くなる。

 俺はテレビをつけて、ソファに寝転がった。カーテンが閉め切ったリビングで、淡々と流れるニュースをなんとなく眺めた。

 気がつけば四時になっていた。 

 もうめんどくさいな。ソファに生気を吸われたかのように、俺はすべてのことがどうでもよくなっていた。今日は、最悪の一日だ。

 薄暗い部屋にため息が充満する。

 本当ならば朝の六時に起きて、コーヒーを淹れる予定だった。それが俺のだらしなさで跡形もなくパーか。

「……コーヒー、淹れるか」

 ふとそう思った。日曜日を取り戻すための希望……ではないのだが、コーヒーを飲めば今日の自分を許せるのではないか、みたいな感じがした。
 立つ気力すらなかったが、なんとか俺は体を起こして台所に向かった。やけに体は重かった。

 台所に立つと、少しだけ空気が軽くなった。

 まずはコンロでお湯を沸かす。暗さが気になりだして、台所の電灯を付けると同時にお湯が湧いたと音を立てた。お湯をケトルに移して温度を下げ、ドリッパーに敷き詰められたコーヒーの粉の上に、お湯を乗せていく。少しずつ、優しく乗せていく。そして、お湯が残っている間にドリッパーを取り除く。

 完成だ。コーヒーが注がれたマグカップから湯気が立ち上る。

 コーヒーの匂いと達成感に包まれ、少し幸せだった。
 ソファで座りながら飲もうか。そう思い、マグカップを手にそっと歩いた。

 そっとそっと歩いた。コーヒーがこぼれないように。一滴もたれないように。赤子を抱くように、両手でマグカップを持って。

 でも今日は、最悪の一日だ。なにやってもだめなんだ。

 マグカップが手からこぼれ落ちた。

 床にマグカップの破片が散らばり、コーヒーが飛び散る。

「何やってんだ俺……」

 その時、たまらなく悔しかった。どうして俺はこんなことをしているのだろうか。朝六時に起きるはずが午後三時に起きて、コーヒーを飲もうとしたらこの様だ。
 どうやら、今日はなにも上手くいきやしないらしい。神がすべて邪魔してくるらしい。

「クソ……なめんなよ」

 俺は天井を見上げ、そう思った。

「やってやる。今日を充実した日曜日にしてやる。神への反逆だ」

 俺はそう決意し、体に力を入れた。

 まずは計画だ。俺は頭をひねらして高速で考えた。

 計画は以下の通りだ。
1身なりを整える。
2電車で都心へ向かう。
3到着したのち、外をぶらつきながら店を回る。
4疲れたところで、夕飯をどこかで済ませ帰宅。

「よし。これだ」

 俺は急いで顔を洗い、髭を剃り、いつもの服に着替えた。

 台所の床にはまだ、マグカップの破片とコーヒーが散乱している。

「あのマグカップ、結構気に入ってたんだけどな」

 まあ、気にすることではない。俺は玄関のドアを開けた。


 俺の部屋は、四階建てのマンションの四階にあり、玄関から外に出ると、柵越しに町の景色が一望できるようになっている。

「嘘だろ……」

 町の景色は、大雨の粒で埋め尽くされていた。

「雨かよ……」

 俺は絶望した。そういえば、と俺は思い出した。朝起きたときに外を確認したじゃないか。なぜ忘れてしまっていたのだろうか。俺はリビングのカーテンを開けなかった自分を恨んだ。

 雨のことを忘れていたせいで、あっさりと今日の計画は崩れ去った。でも、俺はさっき決意したんだ。

「まだだ」

 まだ俺は諦めるつもりはなかった。最後の望みとして友に電話をかけた。

「もしもし? いま田中の家に行っていいか?」
「どうしたの……は?」と田中は言った。「君、この雨で僕の家来るの?」
「この雨だからこそ、田中の家に行くんだよ」
「まあ別にいいけどさ。あまり濡れないでくれよ。部屋汚したくないし」
「今日の俺はついてるからな。まあ期待しててくれよ」
「う、うん……」と田中はそう言って電話を切った。

 俺の家から田中の家まではバスで行く距離だ。俺は傘を取っていつものバス停に向かい、バスに乗り整理券をとった。

 バスまでの道中、なぜか車通りが多く、何度も水しぶきを浴びせられたが、そんなことはもうどうでもよかった。

 バスの中は、学生が多くいつもより混んでいて、座る場所は無かった。まあいいだろう。田中の家までそう遠くない。俺はつり革につかまり、乗り過ごすことにした。びしょぬれの俺から離れていくJKを見たときは、少し心が痛んだ。

 田中の家の前のバス停に着き、バスの出口が開いたところで俺は運賃箱に向かった。ポケットから財布を出し、金を運賃箱に入れようとした。しかし、そのとき俺は油断していた。

 ポケットからひらひらと整理券がバスの出口から落ちていく。俺はあわてて傘を置いて、整理券を追っかけた。俺はぬれながらも、なんとか水たまりから整理券を拾って、原型をとどめていない整理券を運賃箱に入れようとしたとき、運転手から止められた。

「お兄さん、その整理券僕にください」と運転手は言った。
「すみません……」
 俺は運賃箱に金を入れて、運転手の舌打ちを背に外へ出た。乗客の目線が痛かった。

「……すごい雨だな」

 そう思い空を見上げ、まわりを眺めた。外は大雨で薄暗く、街灯がより一層眩しく感じる。

 このまま雨にぬれていたい。

 でもそんなことをしていたら田中が怒るか。そう思い、俺は傘をさそうとした。

「ああ、傘忘れた」

 バスの中に置きっぱなしだ。まあいいか。

 俺は田中の家に向かった。急ぐわけでもなく、ゆっくりと。


 田中は、木造二階建てのアパートの一階に住んでいる。古いアパートだが、なかなか趣きがあって俺は好きだ。田中は早く引っ越したいらしいが。もったいない話だと思う。

 どうせ鍵は開いているだろう。俺はいつものように、インターホンは押さずに田中の部屋に入った。

「おじゃましまーす」
「君、インターホンぐらい鳴らせっていつも……は?」と田中は俺を見て固まった。「なんでそんなに、ぬれてるんだ?」
「だから言ったろ? 今日の俺はついてるんだよ」
「傘はどこ?」
「忘れた。バスの中に」
「何も君に言うことはないよ……とりあえず風呂入ってきなよ」と田中は呆れたように言った。
「……ありがとな」

 俺は染み付いた雨と涙をシャワーで洗い流した。

「おまたせ」

 六畳の居間に戻ると、真ん中にぽつんとあるテーブルの上に、発泡酒の缶とあたりめが置いてあった。

「今日は何があったのさ」と田中はあたりめをしゃぶりながら言った。「まあとりあえず座りなよ」

「いやー、今日はほんとに大変だったぜ?」

 俺は冷たい畳の上に座り、発泡酒を開けてぐいっと喉を潤した。

「相変わらず安っぽい味だな」
「酒を出してあげただけ感謝してほしいな」
「まあ、でもうまいよ」と俺は言った。「今日の俺の話聞きたいか?」
「とりあえず聞くよ」

 俺は、三時に起きてからここに着くまでの話をした。田中は小ばかにするように笑った。

「それはほんとに……大変だったね」と田中は手で口をおさえながら言った。
「笑い事じゃないんだぜ、まじで」
「まあ、ゆっくりしていってよ。ちょっとトイレいってくる」

 俺は、いっといれ、と言った。しょーもな、と田中は言った。ほんとにしょうもないな。

 台所の上の窓からは外が見えた。外はいつの間にか夜の暗さになっていた。部屋は一つの電灯がやわらかい光で包んでいる。

 光の反射できらめく発泡酒の缶を眺めながら、ゆっくり缶を持ち上げ喉に酒を通す。

 雨の音がぽつぽつと聞こえる。雨は少し弱くなったらしい。いや待てよ、これは決して田中の尿と水が弾ける音ではないよな。そんなわけはないよな。

 俺は酒を飲みながら部屋を見渡していると、水の流れる音が聞こえ、トイレのドアが開いた。

「それで、神への反逆はできそうかい」と田中は戻りながら言った。
「神への服従が限界かもしれないな」
「まあ、そういうものだよね。神に振り回されてばっかりだよ。ほんとに」

 俺はふと違和感に気がついた。

「……なあおかしくないか?」
「なにが?」
「トイレの流れる音、まだ聞こえるぜ」
「言われてみれば……確かに聞こえる。なぜだ?」と田中はトイレを見つめて言った。
「おい、見てこよーぜ」

 うん、と田中は言った。俺らは足早にトイレに向かった。

「おい……水流れっぱなしになってるぜ。どうしたらこうなるんだよ」

 トイレの水は、止まることなく流れたままだった。

「きっと君といるからだよ」と田中は笑いながら言った。「今日は君といるとろくなことがなさそうだね」
「今日の俺はついているからな」

 俺らはそう言って笑い合った。

 田中は大家に相談しに行き、戻ってきてはトイレの何かのネジを締めていた。どうやら応急措置として、止水栓を閉めて水を止めたらしい。今度、業者に来てもらうよ、と田中は言った。

「今日はトイレ使えないのか」
「仕方ないね。このアパートは古いし」
「引っ越すなんて言うなよ? 俺結構ここ好きなんだぜ」
「僕は好きじゃないよ。貧乏くさいしさ」と田中は言った。

 そして俺らは気持ちを切り替えて、発泡酒を持ち乾杯した。田中と飲む発泡酒は、どんな酒よりもうまかった。たとえ、それが安っぽい味だったとしても。

 俺と田中は酒を飲みながら駄弁ったり、スマブラをしたりして時間を過ごした。その時間は一瞬だった。

 気がつけば三時になっていた。今回は午前のほうのだ。

「もう朝まで飲んじゃおうよーなー」田中はキャラ崩壊していた。
「悪いな。俺、明日仕事なんだよ。スーツとかないしな」
「えー? シチュー?」
「田中……大丈夫か?」 

 田中はいつぶっ倒れてもおかしくない様子だった。

「とりあえず俺は帰るぞ」
「もー泊まってけばいいのにー」
「じゃあな。今日はありがとな」
「うーん……じゃーねー」と田中は残念そうに言った。

 俺は玄関を出て、空を見上げた。

「雨、止んでるな」

 すっかり雨は止んでいて、空には雲ひとつなかった。星はまるで、虹のようだった。

「さあ、歩いて帰るか」

 俺は力強く、一歩を踏み出した。しかし、俺は油断していた。俺は星空に夢中で、足元を気にしていなかった。

 俺の一歩目が水たまりにヒットし、ズボンの裾が泥まみれになった。

「あ……やっちまった」

 ほんとに、今日は最悪の一日だよ。


 まあ、いいか。





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