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雲月記.穀雨

近頃はものを使うことや食事をすることが辛くなります。罪の意識.などと言うと仰々しすぎるし、それは罪ということでもなく、ごく自然なことで。ただ、凄く悲しくなって、心の中で謝罪をする。今まではそんなこと無かったのに。かわいそう.と言うのも傲慢過ぎて嫌ですね。彼等はただそこにあるだけ。私も同じく。明確な理由というのを言語化するのは難しいのだけど、ごめんなさい.ごめんなさい.というのだけは確かにあるのです。
畢竟、アニミズムの成れの果てです。
(このどうしようもない程くだらなく愚かで傲慢な感情をアニミズムという言葉を借りて薄めようとする私の醜さを看過ください。)

人間が道具を使うのも、食事をするのも、当たり前のことだと思っています。この世の全ては自然ですから。なのに辛いと感じれるのは、私の精神がより高次に近づけたからだと思っておきます。
かわいそう.なんて言葉が思い浮かぶのも十分にヒトを殺せるぐらい傲慢ですが.
私は生物と非生物をとって、生物のほうをより嘆くという所があります。生物と非生物ならまだしも.肉と草で肉を嘆いてしまったりするのです。傲慢で傲慢で傲慢で傲慢で、嫌になります。生物と非生物だって、変わりはないはずだし!私の今横たわっているこのベッド...なんら...

言葉を選ぶのが難しい。言葉に触れるとどれもこれもが傲慢すぎて.

穀雨はいつもより沢山noteに文章を投稿しました。不思議と饒舌になったのは調子が良くなったからなのか、はたまた悪くなったからなのか。

よく弥勒様のことや、仏教のこと、仏教でなくとも哲学のこと、所謂形而上のことを、考える様になりました。人間辛いとそういうのに頼ろうとするもんです。そういうことを知って考えると、心が強くなるのを実感します。もう土に還った偉大な先人達の崇高な思考に助けられています。本当にありがとうございます。
私自分の目で見たもの感じたものに悟性を得るところが大いにあります。理性の帯を薄くして、もっと感覚に寄り添って。カントの言うところのものとは少し違いますが.そしてこの悟性は形而上に及びます。この感覚には確かに高次を感じます。
ポイントは、薄く、です。

今回は随分感覚的な話をしました。雲月記なのに。むう。
ですがしかし、こういうことを考えてるのが最近の私の脳味噌であるのが事実です。あるがまま、ありのまま、書くのが一番よろしい。
よしとします。

平凡

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