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能登半島地震 名大DMAT隊が直面した「被災者が被災者を介護する」過酷な現場

能登半島地震は石川県能登地方を中心に甚大な被害をもたらし、3カ月経った現在も6,000人を超す住民が避難生活を強いられています(4月9日現在)。名古屋大学病院は1月から2月初旬に計2回、災害派遣医療チーム(DMAT)を派遣し、医師をはじめ職員らが隊員として被災現場で活動しました。
DMATを担ったメンバーに当時の被災現場の状況や直面した出来事についてお話を聞きました。

名大病院DMAT(1回目派遣)の皆さん
石川県の被災地へ

1回目派遣(1月4日~8日)の現場は震度6強の激震と4mを超す津波が襲った石川県珠洲市。名大DMAT隊が直面したのは、被災して混乱に陥った介護の現場でした。
倒木、土砂崩れ、倒壊した家屋や陥没した道路に行く手を阻まれながら訪れたのは、能登半島の先端にほど近い海沿いの介護老人保健施設。
建物の2階は損壊し、電気、水道、ガスが止まり暖房が使えずお湯も出ないまま。断水でトイレを流せず施設内のどこからか臭いが漂う中、入所者は廊下やロビーに敷き詰めたマットの上で寒さをしのぎながら寝泊まりしていました。

いたるところで家屋や道路の損壊があり交通の妨げに

ここで暮らすのは要介護の高齢者100人と、隣接のグループホームから避難した認知症の利用者20人の計120人。90人いた職員の大半が被災し出勤できず、出勤できる30人も自宅が全半壊した“被災者”ばかり。この限られた職員が、震災発生からほとんど睡眠も取れないまま過酷な環境で介護を続けていました。

壁が損壊して使えなくなった介護老人保健施設の室内

施設に到着したメンバーが状況を尋ねると、施設の職員はせきを切ったように窮状を語り始めました。都市から離れた過疎の集落には救援も支援も情報も届かず、孤立感が日増しに強まる日々――。職員は「私たちは忘れ去られてしまったのでは、という怖さで震えていました」と、涙ながらに訴えました。

介護施設の職員から状況を聞き取る山本医師ら

DMAT隊のリーダーを務めた名大病院救急科長の山本尚範医師は「不眠不休で7日間も介護に従事し、精神的にも肉体的にもボロボロになっていることが明らかでした。とにかく、職員の話に耳を傾けました」と振り返ります。

山本科長と並んで話を聞いた看護師の戎谷智恵さんは「この方は介護を手伝ってほしいのではなく、とにかく現状を知ってほしい、この気持ちを聞いてほしいのだ」と感じ取りました。職員と向き合い、話に耳を傾けること2時間あまり。戎谷さんは「さぞやつらかっただろうと思うと、どうしてもこらえきれませんでした」と、涙を止めることができませんでした。

活動拠点本部で全国から参集したDMATと打ち合わせする名大チーム

災害医療は主に、大きなケガや病気といった緊急を要するケアを想定しますが、名大DMAT隊の活動は、被災による介護現場の崩壊というリスクを浮かび上がらせました。山本科長は「一刻を争う治療を必要としていなくても、寝たきりの人など介護があって初めて生きられる人は、被災によって介護を受けられなくなった瞬間、命の危険にさらされてしまいます」と指摘します。
この訪問により、名大DMAT隊は「介護が破たんし、災害関連死を招く危機的状況にある」として、入所者の被災地域外への集団搬送とケアをDMAT本部に提言。その後1月11日、自衛隊ヘリコプターによる入所者の集団搬送につながりました。山本科長は「今すぐ治療をしないと生死にかかわる状況でない、要介護の方を空路で大規模に搬送することは前例がなく画期的」と、このプロジェクトに感謝します。

緊急的に実施された自衛隊ヘリによる被災者の集団搬送

名大DMAT隊が担ったのは、各地から集まったDMAT隊の“ベースキャンプ”となる活動拠点本部の体制づくりや、支援を要する現場の状況調査など。「○○で救助が必要」「□□に何人が避難している」といった、本部に続々と舞い込む情報を整理し、DMAT各隊の活動方針と具体的な行動の決定につなげる役割を果たしました。
2回目派遣は、地震発生から1カ月後の1月31日~2月2日。被災地におけるDMATの常駐を解除する任務でした。輪島市に設置された保健医療福祉調整本部で、各DMAT隊が展開していた業務を現地の病院へ引き継ぐ業務を担いました。

■医師 山本 尚範さん
被災地域外への要介護者の搬送により多くの人を救うことができましたが、搬送された人がこの先どこで暮らしていくのか、また、施設入所者や住民がいなくなった地域の仕事と暮らしはどうなるのか、課題は山積です。ケアワーカーが減らずインフラが途絶しないような防災の必要性を痛感しました。

左から、市川 直樹さん(看護師)、植村 武司さん(放射線技師)、戎谷 智恵さん(看護師)

■看護師 市川 直樹さん
 同様の地震災害が名大病院の周辺地域で発生した場合を常に想像しながら活動しましたが、医療や介護に従事する人が被災者になる想定が不可欠だと実感しました。今回の経験を生かし、南海トラフ地震といった大規模災害に備えたいと思います。

■放射線技師 植村 武司さん
 本部に入る情報を、大きな模造紙で1日に10枚ぐらい書き込みました。こうした情報が“本部長の頭脳”となり、支援活動に活用されました。DMATは行政と連携しているので、情報の集約と円滑な活動体制づくりに果たす役割の大きさを感じました。

■看護師 戎谷 智恵さん
 医療や介護のサポートを想定していたのですが、その現場で求められていたのは精神的な支えだと感じました。相手の話を傾聴し、共感して寄り添うことで「取り残されていない」と安心してもらうことは、とても重要な役割だと気付かされました。

左から、小木曽 雄大さん(看護師)、阪井 祐介さん(薬剤師)、宮川 泰宏さん(薬剤師)

■看護師 小木曽 雄大さん
 名古屋が被災し、DMATをはじめとする災害支援部隊を受け入れる側になったとき、名大病院という大きな組織の中で統率が取れるのか、正直不安を感じました。そのためにも今から災害医療の体制整備を進めていかなければいけないと思いました。

■薬剤師 阪井 祐介さん
 本業の薬剤師の仕事ではなく、調整員として情報整理など体制づくりに携わりました。災害発生直後の混乱する現場であっという間に時間が過ぎ、スピード感をもって仕事に臨みました。非常に重要な役割を担い、とてもやりがいを感じました。

■薬剤師 宮川 泰宏さん
 被災しながらも病院で働く方たちは使命感や責任感を持って活動していましたが、1カ月も続くと心身の疲労はピークに達していました。しかし、そういう人たちがいなければ町の医療が崩壊してしまう。町の医療を継続させることの難しさを実感しました。

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