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外部に癒やしを求めることは悪くはない

心の問題は心で解決する、というのを前提としても外部の癒やしに価値がないわけでもない。
対症療法に過ぎないのかもしれないが少なくとも昨日の俺は「笑ったのである」。                     

心が死ぬということはある。
何をしても楽しくない、何も感じない。
そんな日々を過ごしながら来月で40になるが人生も折返し地点。
少し早いが特別な物を自分にプレゼントしようとかなり無理をして高価な時計を買った。
アマゾンのアウトレット品で4割引とお買い得(梱包が傷んでいるだけで中身は新品)。

すぐに荷物は届き動作を確認するが既に動画で何度も見ていたため「こんなものか」と思い同居している母にも見せて喜ぶふりをしていた。
年々、無感動になっている…
どうしても実感してしまう。
最近笑うことも少なくなった。

取り敢えず壁にかけて様子を見た。
でかいなあ…
成人男性が抱えるほどである。
仕掛けが搭載されているせいか奥行きも中々である(苦笑)。
存在感は抜群。

仕掛けは一時間ごとに作動する。
もうそろそろ鳴るな…
身構える。
音量を最大にしてあるのでビビる。
広がった花弁が綺麗に戻るさまが好きだ。

音楽も毎回変わるため毎正時、気になりだす。
また鳴る…
あと一分…とか(笑)。

しかし綺麗に閉じるなあ。
なんだか生き物みたい。
確かに一匹の動物を迎える心境に近いかも…

2回、3回と見ているうちに始めてこの時計をネットで見た時の感動が蘇ってきた。
なんだかんだで昨日は夜の11時まで、しっかり見てしまった。

買って良かったな…
そう、俺は昨日「けらけら」と子供のように笑っていたのである。
たとえ一過性の癒やしでも「心が回復して行く自分」を確認できた。

ゲームをやったり好きなことに打ち込んで気持ちがリフレッシュされることはあるが、時計に癒やされた、というのは実に不思議な体験だった。

「一時間って、こんなにあっという間なんだ…」とも感じた。
一日中身構えてはいたが絵を描いたり物思いにふけっていると、もう一時間経ったの?という感じ。
5分前の間違えじゃなくて?
こりやあ、あっという間に歳を取るわけだ(苦笑)。

火沢は…
心が疲れているときに「外でランニングしてこい」というデリカシーの無い発言を憎んでいる(苦笑)。

「俺の気持ちも知らないくせに勝手なこと言いやがって」。

本当は理解されたい。
理解されたいからこそ反発してしまう。

時として外部の癒やしは、自分の心を無視されたようで拒絶してしまうことがある。

「ふん、皆、心に無関心だから、こんな中身の無い社会になるんだよ、ざまあみやがれ」

でも、よく考えると外部の癒やしは自分のポリシーを侵害するものではなく両立させることができることに気付く。

なんでこんなに心が痛いのだろう…
なぜ自分はここまで内面に執着するのだろう…
結局はまた自分の過去に向かうのだが…

この世に否定すべきものは無いのかもしれない。

そんなことを考えさせてくれる時計だった。


















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