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橋を渡る イイ・ヤシロ・チ⑧

橋は此方側と彼方側をつなぐ。橋の下は、明らかな境界である。その区切りの上を跨いで行き来をできるようにするものが、橋。

本来、神社は神様(非日常)の領域として、人間(日常)の領域と区切られているが、橋によってまさに橋渡しされ、人の仔が足を踏み入れることが可能となる。

わたくしがこれまで参拝した神社にも、立派な橋が架けられているところが多くあった。それらは二つの異なる世界の間に、区切りとくくりが確保されているところなのかもしれないと、わたくしには思える。そのために、ケガレを持ち込ませず、たとえなにかの拍子に紛れ込んだとしても、それを浄化する機能が作動しているのかもしれない。橋の下に流れる水が、ケガレを洗い流す清めも果たすことも必要なのだろう。

それらの作用のおかげで、わたくしには、橋を渡ったその先は、とても心地好く、生き返るような感覚が得られる聖処と思えるのだ。

また、或る古社ではせせらぎほどの流れが神社の敷地の外にグルリと張り巡らされており、橋が敢えて架けられていなかった。中のモノを外の人の世から護る為か?それとも、彼の地の新しい支配者が、かつての長らを祀る場所にかけた封じ込める(外の世界の秩序を守る)まじないなのか?わたくしには知るよしもないが、兎に角何かの事情か理由がありそうと感じる。

もちろん、ひと跨ぎで渡れる境界だから、わたくしも橋なくても難なく無事お参りできた。その中には、素晴らしく巨きな御神木が厳かに拝殿の脇に立ち、かつての祭祀場の跡と明らかに見て取れる場所も在った。参拝した全員が気持ちが洗われるようね、と喜ぶほど、社域は極めて清浄に保たれていたのだった。

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そういえば、かつて伊勢神宮内宮の五十鈴川に架かる宇治橋の渡始式に参列したことを思い出した。遷宮に伴い宇治橋を新調する際に、新しい橋の守りを強固にするために、鳥居そばの饗土橋姫神社において神事を行い、決められた手順を踏んで、橋の実質のはたらきを起動させるもののようだった。

前日に吹き荒れた強風が祓い清めた素晴らしい秋晴れの朝だった。多くの参列者に取り囲まれ、執り行われた神事からは、一帯に爽やかなミントブルーのエネルギーが満ち溢れていた。あれは祓えの女神の御力の色だったのか。その日のうちに一般の渡りも許されて、初めて夕闇の神宮を体験したことも懐かしい。

詳しくこの神事の貴重な記録が見つかり、わたくしの記憶も鮮やかに立ち上がってきた。

http://www.shirahata-jinja.jp/blog/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%90%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B%E6%B8%A1%E3%82%8A%E5%A7%8B%E3%82%81%E5%BC%8F%E3%80%91%E7%8D%85%E5%AD%90%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8B/

翌朝改めて参拝に向かうと、木の香り芳しい白木の宇治橋に霜が降りていて、キラキラと眩く朝日に照らされていた。その神々しい有様は、わたくしに「渡す」実質の力が橋に宿り、起動したことを確信させた。彼方と此方を均衡をもってつなぎ、渡った者は必ず戻す橋の効力を実感できた体験であった。

橋に纏わる様々な不思議な話は京都に多く残っている。陰陽師安倍晴明の式神がいる一条戻り橋は、つとに有名である。昔話には行きて帰るストーリーは、大きなテーマとして扱われているが、橋は、人間が渡った先で経験することから何かしら大切な物事を得て帰還する象徴なのかもしれない。

https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/itijyo-modoribasi.htm

渡った先から此方に、戻れなくなると、どうなるのだろう。ふと思いつくと、なんとなく怖ろしい気持ちになる。それをきっかけにまた別の聖処の旅の記憶が立ち上がった。

わたくしには、渡ってきたはずの橋が参拝帰りに忽然と目の前から消えていて、吃驚した体験がある。

https://nihonsankei.jp/hashidate.html

気のおけない友人と、天橋立の龍神のご機嫌伺いにお参りドライブに出かけた時のこと。参拝終えて天橋立から車に戻るとき、なんと、橋は二つに割れて旋回していたのだった。説明のアナウンスが流れて、漸く戻れることを理解し、目下を通る船々を眺めるうちに、この珍しい光景は、参拝した龍神からの合格印のサプライズかもしれない、と友人と能天気に語り合ったことも思い出す。

https://www.youtube.com/watch?v=vxNMSStHvhk

橋の下、橋のゆく先には人には未知の次元があるかもしれないのだと、意識すること。本来は、橋を渡すために厳しいバランスも求められ、そして、そこを渡るにはそれなりの覚悟や勇気が求められてきた。

橋は、それらをわたくし達がもちあわせているかと問い質しているのかもしれない。常とは異なる処から無事帰還するためにも、畏れと共に、神の領域にいっ時お邪魔させていただく謙虚な心持ちであるかを。

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