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PASSION ~旅路はエクアドル~

甲子園の心はエクアドルに飛んだ

 エマヌエルホームを訪れる数日前、大森さんから電話をもらっていた。
 「来月、エクアドルでパンアメリカン野球大会が行われるんだって。ペルーも出場するんだけど、JICAも大会を支援するから、(桜井)国弘とか他の短期隊員も来るよ。来年ペルーに野球を教えに来るT君ももメンバーになっているんだって。なほちゃんもエクアドルに行ってきたらいいよ。丸井さんには言ってあるから、話をしてみて」
 こんな電話をもらったあと、私はペルー野球連盟会長の丸井さんのもとへ話を聞きに行っていた。エクアドルの話を振ってみると、すぐに大会の同行が決まった。往復のフライトチケットだけを自分で手配すればいいとのことだった。エクアドル…まったく行く予定はなかった。赤道の通る国、ペルーの上に位置する国だ。その野球大会とは、アメリカ、パナマ、ベネズエラなど、8ヵ国が参加する全米少年野球大会である。
 四苦八苦しながら私はフライトチケットを手配した。

 10月15日早朝、久しぶりにバックパックを背負い、タクシーに乗り空港へ。赤いジャージをまとったペルーチーム一同を発見。丸井さんは大会には同行しない。エクアドルへ行くメンバーに日本語を話せる人がいるのかどうか私はとても心配していた。ペルーの野球人は日系人が多いものの、日本語を話せる人はごくわずか。顔は日系人でも言葉はスペイン語なのだ。エクアドル滞在は12日間。選手たちは宿泊棟に泊まるというが、私はどこに宿泊できるのかわからないままだった。楽しみよりも不安のほうが勝っていた。
 

 監督、コーチ、責任者など6人が大人男性、女性は4人。監督やコーチに一緒においでと手招きされるがやはり会話はスペイン語。会話がうまく滑らないうえ、緊張していて苦しい。
 90分ほどのフライトで、エクアドル・グアヤキル空港に到着した。ねっとりとした暑さに、あっという間に汗ばむ体。さすが赤道直下の国だった。
 空港には、佐藤先生の教え子、JICAエクアドル事務所ボランティア調整員の桜井国弘さん(47)や大会を手伝うJICA短期協力隊の青年たちが迎えてくれた。
 大会会場のあるポルトビエホ市へはバスで5時間ほどだった。
 会場は、スポーツをするための総合施設で、施設内の道は整備され、体育館やグラウンドなど設備はとても近代的だった。


 選手や監督、コーチは施設内にある宿泊棟へ。女性引率者のひとり・ジェニーとともに、私もここに宿泊となった。息子がアメリカにいるために英語を勉強したというジェニー。英語で会話が成り立って、ホッとする。
 到着して一時間も経たないうちに夕食となる。食堂は宿泊棟の1階にあり、チームごとにまとまって並ぶ。自分のプレートに料理を乗せていくというカフェテリア形式だ。この日のメニューは炒めたライス、フライドバナナ、肉料理、サラダ、果物、フレッシュジュース。緊張も解け、すっかり空腹となっていた私はモリモリ食べた。


 大会にはアメリカ、プエルトリコ、ニカラグア、パナマ、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ブラジルの計8ヵ国が参加している。カテゴリーは13、14歳のプレジュニアの大会だということがわかった。
 アメリカやベネズエラの選手は体格が良く、ペルーの選手たちが幼く見える。ブラジルチームから聞こえてくるのはポルトガル語だが、日系の顔立ちが多い。
  翌朝、部屋のシャワーは水しか出なかった。昼間なら気持ち良いかもしれないが、朝晩の水シャワーはきつい。震えながらシャワーを浴びた。
パン、スクランブルエッグにハム、バナナ、コーンフレークという朝食メニュー。ココアやコーヒー、フレッシュジュースは自由に飲むことができる。ここでの食事の心配は一切なさそうだ。
 大会が始まるのは翌日からなので、この日は自由日。ジェニーと施設周辺を散歩したあと宿泊棟に戻ると、桜井さん一行・JICAに関わる人たちを乗せたバスが到着したところだった。
ペルー野球を支援する会のメンバー・Mさん(35)、Kさんの後輩であり、来春の大学卒業後にペルーに野球を教えに行くという寺崎健太郎君(21)ら11人が、一ヵ月ほどのJICA短期隊員である。Sさん(27)は通常の青年海外協力隊としてエクアドルでの野球普及・指導にあたっている人だ。二年間の任期満了まであとわずか。この大会はこれまでの活動の集大成でもあるという。
 昼食後、ペルーチーム全員で近くのショッピングセンターに出かけることになった。昨日はホテルに宿泊していたという3人の女性陣も宿泊棟へ。話好きのサオリ、「私バカよね~」のフレーズと「オカマ」という言葉が好きなギセ、愛夫家のイサ。みな日系人だ。私はこれまで彼女らとまったく会話をしていなかったのだが、打ち解けてしまえば母のように私のことをあれこれ心配してくれた。


 サオリとギセの話せる日本語と言ったら「オハヨウ」「ゴハン」「ボウシ」「アブナイ」くらいだ。イサは日本に留学していた過去があり、私から話しかければ覚えている日本語で応対してくれた。
 
大会幕開け

 オープニングゲームは地元・エクアドル対ペルー。地元だけあって、エクアドルチームへの応援がものすごい。それに押されてしまったのか、ペルーチームは元気がなくコールド負け。大敗だった。
 この日の夜、ペルーチームの部屋にMさんとK君が挨拶にやってきた。Mさんは佐藤先生のつながりで、1997年から一年間ペルーで野球を指導していた経歴がある。劉著なスペイン語で懐かしそうに監督やコーチらと話をしていた。それをじっと見つめる健太郎君。
 翌日はベネズエラ戦。ベネズエラは南米で唯一のプロ野球をもつ、野球が盛んな国である。ペルーの子どもたちとは差がありすぎた。あっさりコールド負け。その後、ブラジル対エクアドル戦を観戦していると、近くにK君の姿があった。スペイン語の教則本とメモ帳を持ちながら、周りの子どもたちと会話をしている。さわやかな笑顔が印象的な健太郎君。あっという間に子どもたちの人気者だ。言葉がわからなかったらすぐにその場で調べてメモするという前向きな姿勢があった。
 主に20代前半の短期隊員たちはみな礼儀正しい。試合中、ボールボーイを務めていて、飛んだボールを拾いに行くのにも、審判団に飲み物を差し入れするときも、どんな時でも全力疾走。スペイン語は話せなくても、自ら進んで挨拶をし、関係者とコミュニケーションを図っていく。私は、同じ日本人としての誇らしさを覚えていた。

甲子園の心があった

 大会も終盤にきた頃、Mさんの発案によりペルーの子どもたちへ“贈りもの”が届けられた。それは“甲子園の心”だった。

 Mさんがペルーチームを迎えに行く。その間、球場から少し離れた広場ではK君がストライクアウトゲームの準備をしていた。1から9の数字が書かれたボードにボールをあてていくゲームである。
Mさん、健太郎君、この企画に賛同したSさんや短期隊員らが寄付したTシャツや野球帽、タオルなどのグッズが芝生の上に並べられていた。ゲームの結果に応じて野球グッズをプレゼントしようという、サプライズイベントだ。
 選手たちがやって来る。ゲームの説明をしてプレイボール!


 子どもたちだけでなく、監督やコーチ、ジェニー、ギセ、イセも参加して盛り上がる。そこにあるのは笑顔だけ。野球グッズだけでなく、日本から持ってきたボールもペルーチームの手に渡った。
 このゲームをやる直前、ペルーは大会最後の試合に負けて最下位が決まってしまったのだが、気づかされたことがあった。
 試合に負けたっていい。大切なのは野球が好きだということだと。
「やれて良かった。これがなかったら俺、ペルーに対して何にもできなかったから」
 Mさんの、貴重な出会いと経験をさせてくれたペルーへの感謝の気持ちは今もずっと変わらず深いまま。恩返しに何ができるか。せっかくエクアドルに来ているのだから、ペルーチームに何かしたいという強い思いが込められていた。
 「ボールが飛ぶ、跳ねるところには人間の心がある」
佐藤先生の言葉を、私はエクアドルで現実として感じることができたのだった。
「贈りもの」はこれだけではなかった。Mさんはペルーチームを夕食へ招待した。用意されたバスに乗り、レストランへ。
 夕食を食べながら、子どもたちの間に入って一緒に遊ぶK君。彼の笑顔は太陽みたいに明るい。来年はペルーでその笑顔とともに甲子園の心を届けてほしい。


 そんな様子を先輩の目で見守りながら、Mさんはペルーの子どもたちに喜んでもらおうと休むことなく動いていた。
「エクアドルに来ることができたのも、佐藤先生があってこそ。先生の導きでここにいるんだって思うと、謙虚になれる。35歳にもなって、一ヶ月も野球に浸かることができるなんて思ってもいなかった。エクアドルに行かせてくれた職場にも感謝している」
 そう言っていたMさん。
 ペルーチーム一同がMさんたちに「アリガトウ」と日本語で一礼した。
Mさんの心の在りかた、意志に、心から乾杯だった。

 3日後、球場周辺をフラフラしていると、エクアドルで外務関係の仕事をしている日系ペルー人・テンヤさんに会った。
 「日本から、もっとコーチが来てほしい。グラウンドでのゴミ拾い、礼儀などを伝えてほしい。日本の野球と教育は素晴らしいですよ。グラウンドだけでなく、自分の家で、日常で、そういったことを自然とやれるようにしたい。技術はもちろんだけれども、『心』を伝えてほしいんです」
 大森さんや桜井さんの教え子たちは、ペルー社会で立派に活躍しているとテンヤさんは言う。野球を通じて身につけたことが活きているのだ。
 佐藤先生が求めていた「甲子園の心」。それは海を越えて世界にも届くものだった。
 先生はいなくなっても、その心と意志を継いだ人たちがいる限り、未来へも「甲子園の心」は伝えていける。そう確信した。

 エクアドルに来る前は、不安だらけ、心配だらけだったけれど、ペルーチームに同行させてもらって、本当に良かった。とても素敵なものを見た、感じられた日々だった。
 最後の晩、ペルーチームの部屋にMさんや健太郎君らが遊びに来て、トランプに興じていた。日付が変わっても笑い声は絶えなかった。すっかりペルーチームになじんだ健太郎君。来年を待っている。

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