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エッセイ「小学校に通った頃」

 明治2年、京都の町民の尽力で、学区制小学校が64校誕生した。私が入学した小学校は、そのうちの一校だった。
 昭和43年、私が入学した年に創立百周年を迎え、児童たちが運動場で「100」を形づくって、記念写真を撮った。白黒の航空写真が実家にある。校舎やプールも、はっきり写っている。

 写真が撮影された当時、寒い教室を暖めていたのは、だるまストーブだ。コークスは校舎の地下室に山と積まれている。日直が地下室へ行き、シャベルでバケツに拾い入れて教室まで運ぶ。次は、スコップに持ち替えて、担任の先生に見守られながらストーブの小窓へとコークスを放り込む。炎が間近に見えて、顔じゅうが火照る。日直の特権で、家ではできない貴重な体験ができた。

 習字の時間、ひょうきん者のM君が「やっと上手に書けた。はよ乾け」と半紙をストーブの前にかざして小躍りしていた。次の瞬間「わあっ」と大声が上がった。半紙がストーブの上昇気流に乗ってふわふわ浮いている。M君は必死で半紙に飛びついたが、最高傑作はくしゃくしゃになった。みんなの大笑いとは対照的に、M君はあっけにとられて突っ立ったままだった。小学校のストーブといえば、この出来事を思い出す。

 1・2年生の担任の先生は、母よりもだいぶ年上の教師然とした女の先生で、クイズを解くような国語の時間が楽しかった。
 その日に習ったひらがなのつく言葉を探すという宿題、清音なら簡単に見つかったけれども、拗音になるとなかなか思い浮かばない。ある日〈にゃ〉のつく言葉を探すことになった。家で母に聞いたら、すぐに「こんにゃく」と言った。「そうか、頭に〈にゃ〉がつかんでもいいんや。お母ちゃん、すごいなあ」と思った。たまたま台所にこんにゃくがあっただけかもしれないけれども。
 漢字を習うようになると、くさかんむりの漢字、にんべんの漢字など、班から1人ずつ出て黒板に書いていき、一番たくさん書けた班が優勝という授業もあって、みんなで盛り上がった。私が漢字に興味を持ったきっかけだったと思う。

 小学校の運動場は狭かった。トラックは、ぺしゃんこの楕円状で、100メートル走は1周半走る。コーナーは急カーブで走りにくい。
 先生は、たまには思い切り走らせたいと思ったのか、体育の時間に京都御苑に連れていってくれた。校門を出て、ほどなくして到着。私たちの放課後の遊び場でもあった。「あの門まで、よーいどん」、御所の建礼門まで砂利道を駆けた。

 同級生から電話がかかってきた。「小学校、もうないで」。
「歴史ある小学校、解体の是非」というコラムが京都新聞に載った頃だ。仕事の帰り、小学校に寄ってみることにした。

 工事現場には無機質な防音シートが張りめぐらされている。そのシートと鉄筋の間に顔をくっつけ、わずかな隙間から中を覗いてみた。何もかも消えてなくなって、ただの四角い地面になっていた。狭い狭い運動場は、更地の形で見ると、思いのほか広かった。

 一瞬、賑やかな級友たちの声が固まって聞こえてきた。
 歩くとギイギイと音がした廊下、男子たちが腹ばいになって滑っていたつるつるの手すり、式典でかしこまって整列した講堂、粘土のにおいでいっぱいの図工室、いつも水をたたえていたプールは、どんな壊され方をしたのだろう。
 給食室の横には、卒業記念に作った肖像レリーフが飾られていたけれども、あれもただのがれきになったのだろう。

 母校の小学校は、平成11年、京都市子育て支援総合センターに生まれ変わった。建物は母校とは別のものになったけれども、この場所での出来事は、私の土台になったことばかりだ。あの頃の一つ一つの経験が、今の私を支えている。

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