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エッセイ「キミとのお付き合い」

 毎朝、毎晩、歯をみがきながら、私は洗面台の鏡のわたしをうかがっている。
「シミ増えたなあ」
――しょうがないやろ。半世紀以上も生きてきたんやから。
 毛筆からポタリと落ちた墨が白い半紙に染みるように、年をとるにつれ、顔のあちらこちらにシミが出現してきた。頬全体もくすんできて、気がつけば、私の顔面はシミにすっかり支配されている。
 それにしても、こんなにはっきり「増えた」とわかったことがあっただろうか。鼻の付け根の左右両側に一つずつ、薄茶色の小さなポタリが出現している。顔を鏡に近づけて観察する。老眼鏡を外した直後なので、鼻パッドの跡だと思ったが、指でこすっても取れない。顔に定着したシミだ。何でまた、顔のど真ん中に現れたのか。

 若い頃は、全く気取る雰囲気でもない職場で過ごしたせいか、着る物にも化粧にも無頓着で、紫外線対策なんていう考えもなく、お肌の曲がり角の最終コーナーを曲がる年齢になって、やっとシミのひどさに気がついた。化粧水と保湿クリームぐらいは塗っていたけれど、ファンデーションは面倒なので使っていなかった。シミも加速度的に増えるというものだ。
 私の顔面は、目尻や頬から発現しているもやもやとした雲の中に、濃いの薄いの取り混ぜて、いたずらに落とした大きいポタリ、小さいポタリが散乱している。宇宙銀河系の写真のようだ。美しい模様だと思い込もうとしているわたし。

母はシワクチャだけど、シミに関してはなぜか私よりずっとマシだ。妹はアレルギー体質で、全身が湿疹まみれになったこともある。だから、化粧品や薬品にはとても敏感で、気をつかい、世間に数々ある「自然派」とうたわれている化粧品の中から、自分にしっくりくるものを見つけ出した。妹は、その化粧水と保湿クリームと美容液などを使っているうち、肌がつやつやしてきた。
「ファンデーションなしで、すっぴんやで」
「えーっ、ほんまに」
 その肌の白さに驚いた。自然派化粧品、やるもんやなあと、私も同じものを使い始めた。けれど、私は妹のような肌にならず、シミは増え続けている。
「いくら姉妹でも、体質もあるし、生活環境も違うし……」と、化粧品の効果は人それぞれだと実証済みとなった。

「あまり気にすると、ストレスがたまって、余計にシミが増える」とよく言われる。そう、あれこれ考えてしまうのはいけない。だから、細かいことは気にしないぞと決意した。なのに、皮膚科の先生に出会ってしまった。
 毎年受けている健康診査のために内科の医院へ行ったときのこと。この医院には週に1回、皮膚科のお医者さんが来院する。健診の予約の日が、たまたまその日だった。
 診察の最後に「何か気になることはありませんか」と聞かれたものだから、「ちょっと前から指に湿疹ができて痒いんです」と言ってしまった。
「ちょうどいい機会だから診察してもらいましょうか」と、皮膚科医に診てもらうことになった。
「どうされました?」
 まだ30代かな。髪はスポーツ刈りでさっぱりし、丸い顔の頬骨あたりにミカンの皮の表面みたいな小さなブツブツがある。私の指を診て「発汗がうまくいっていないようですね。塗り薬を出しておきます」と言われた。ああそうですかと、そこで終わりになるはずだったのに、皮膚科医は私の目の前まで顔をぐっと近づけて、「それより気になるのがこの辺なんですけど」と、私の頬のあたりを指さした。
 ――どうせ、シミだらけって言いたいんでしょう。
「これ、カンパンといいます。こんな字を書くんです」と言い、カルテに「肝斑」と書いた。その言葉に妙な顔をしていると、「肝斑用の飲み薬あるんですよ。飲んでみますか」とさらに続けた。
「シミって治るんですか?」
 シミは仕方ないと諦めていたのに、何という朗報か。
「いやいや、シミは取れません。肝斑用の飲み薬です。肝斑がなくなるだけでも、この辺すっきりすると思いますよ」
 3か月ほど飲み続ければ効果が出てくる人もいるそうだ。シミを覆っているもやもやとしたもの、それが肝斑。この霧が晴れたら本当にすっきりするだろうなあ。助け船がやってきたような気分になった。

 シミは気にしないと決意したのに、罪つくりな医者だこと。
 内科医院で皮膚科医に出会ったのも何かの縁。薬を出してもらえることになったので、効果があることを信じて服用することにする。まずは28日分、ぱんぱんに膨らんだ薬袋を抱えて帰途についた。そして、毎食後、レモン味の顆粒とカプセル1錠、飲むことを忘れなかった。
 その後、1か月おきに薬を受け取りに医院へ行く。
「顔を洗うときは、ごしごしこすらないでくださいね」
 ――はい、わかっています。
 妹も同じことを言っていた。石鹸を水で濡らして、もこもこと泡を立てて、その泡で肌をなでるように洗うのがベスト。たわしのようなものでこすると、角質層を傷めてしまい、乾燥やトラブル肌の原因になる。皮膚科医と妹の言葉は同じ。こすらない、やたらにさわらない。化粧水をつけるとき、手のひらでパンパン叩かない。保湿クリームを塗るとき、何度もこすらない。
 2か月ほど経つと、目尻のシミを覆うもやもやが、ほんの少し薄くなったような気がした。この調子で飲み続けてみよう。
「口角を上げよ」「目をぱちっと開こう」――鏡の前で言い聞かせる。こうしたほうが少しでも見映えよくなるような気もする。シミじゃないよ。チョウチョだよ。かわいいもんじゃないか。シミは個性だ。

 割り切ろうと思っても、化粧品の新聞広告が目に入る。「女性の敵《シミ》をもとから断つ」「脱・老け顔」「絶対たるまない!」、こんな文字が並ぶ。「絶対」なんていう言葉、使っていいの? 絶対そうなるの? ぶつぶつ思いながら、その文字を追ってしまう。
 ――こんなチラシ、さっさと捨てればいいのに。
 一度でもインターネット検索をすれば、肌に関する広告が勝手に画面に出現する。「潤い感が続く」「アミノ酸がスゴい」「コラーゲン配合」と誘惑してくる。うるさい、何という世の中だ。私は気にしないと決めたんだ。

 40代だったか、シミをどうにかできないものかと総合病院の皮膚科を受診したことがある。そのときの医師は私の顔を見て「老人性色素斑ですね」と言った。「老人性か……」と、がくんときたことを覚えている。「レーザー治療もできますよ。でも、それをするなら1か所ずつですね。患部には1週間ほどガーゼを当てての生活になります。完全に取れない人もいますが」――こんな話を聞かされると、レーザー治療に踏み込む気持ちにはなれない。
 皮膚科病棟の廊下や診察室には、生まれつきのアザとか、やけどや事故で負った重い傷とか、そういう写真が何枚か掲示してあった。こういう人たちが皮膚科での治療を必要としているのだと思い知って、それ以来、シミのことで病院へ行こうとは思わなくなっていた。
 1960年代の物語が懐かしくて、「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見ていたとき、はっとするせりふが耳に飛び込んできた。堀北真希演じる自動車整備工場で働く六子がやけどをして、森山未來演じる菊池医師に相談する場面である。「跡、残りますよね」と六子に尋ねられた菊池医師は、「やけど、けがの跡、シワ、シミは、一生懸命に生きている人のあかしだから、僕はとっても美しいと思うけどね」と答えるのである。「美しい」と言ってもらえるシミなら大いに結構、もう気にしないでおこうと思ったものだ。
 しかし、しかしである。「気にしない」という決意は時間とともに薄らいで、やっぱり人前に出るときは気になって、ファンデーションやコンシーラーを塗りたくる。シミは完全に隠せないのに。べたべたするのが気持ち悪くて帰宅したらすぐに洗顔するのに。
 試しに、「プレゼント実施中」という広告チラシの「本券をご持参の方にサンプルを進呈します」と点線で囲まれたところを切り取って、デパートの化粧品売り場へ足を運んだことがある。
 ――どうしてこんなチラシ残してるかなあ。
 美容部員にファンデーションのサンプルを差し出される。「一度使ってみてください」と言ってくれるが、受け取る段になって、「私、肌が弱くて痒くなるんですけど、大丈夫ですか」と返してみる。「それじゃ、無理なさらないように」と言葉を濁された。ということは、やっぱりファンデーションは化学物質なしというわけにはいかないんでしょう。もしかしてこのファンデーションはきれいにシミが隠れるかもと思った私がばかだった。
 別の日の仕事帰り、銀行に立ち寄ったときのこと。ロビーの案内係のご婦人は、次から次にやってくるお客さんの用件を聞き、てきぱきと対応していた。私にも声をかけてくれたその顔を見て、はっとした。ぱっちりした目に施したアイシャドーが濃すぎるうえに、目の下のたるみがやけに目立った。
 ――丁寧に声かけしてくれてるけど、お顔が……。
 同世代のベテラン女性ゆえに、ちょっと残念だと思った私は、このとき随分もがいていたと思う。

 シミに対して心を無にするのは難しい。不可能だ。
 肝斑が治るという薬を飲んで、もう半年たつ。私も意地になる。皮膚科医は「薬の効き目は人によりますから」と、あくまで優しいが、ううんと唸りそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。
 ――ほんとは、完全に治ると思ってないんじゃないの?
 皮膚科医が「もうやめましょう」と言うまで、私は粘るぞ。きっちり薬を飲むぐらい簡単なことだ。
 通勤電車に乗ると、私と同世代らしき女性の顔につい目が行く。私ほどのシミをのせている人はあまり見かけない。きれいに隠しているのかな。中には、いかにも隠していますという厚塗りの人もいる。まだノーメイクのほうがいいと思うくらい粉っぽい顔の人もいる。いろんな模様のシミ、もとい、一生懸命に生きているあかしを表出させている人もいる。ほっとする。
 駅の通路には、私の背丈ほどの大きな看板がある。その一面いっぱいに、きれいな女優さんのアップの笑顔がある。こんなに大きく引き伸ばされているのに、シミのかけらも見えない。ペンキ塗り立てのような白色だ。写真の加工技術は進化していて、広告にそれを使っていることぐらい、買い手だってわかっている。シミは女の敵だなんて煽って、化粧品を売ろうとするのはやめてほしい。一生懸命に生きているあかしを堂々と表に出している人が、ごまかしのない純粋な人間だという風潮になってほしい。

 薬を受け取りに医院へ行く日、8か月目、皮膚科医はとうとう言った。「これ以上、薄くならないようですね」。
 ――勝った。
 これほど粘った患者はいないんじゃないか。言われるとおり服用した。でも、だめだった。皮膚科医の見立てどおりにはいかないことだってある。
「あとはシミ取りレーザーですね」と、パンフレットをくれた。皮膚科医のお父さんが院長の美容クリニックのパンフレットだった。

 ――もういいよ。シミと一緒に生きていくから。
 そう決意した週末の日曜日、手づくり市が開かれている公園へ行ってみた。「文字、書き売りします」というミニ看板が目に入った。こんな宣伝文句は初めて見る。赤いバンダナを頭に巻いた大学生風の若い女性が、狭いテントの中で背中を丸めて筆を動かしている。見本の色紙には、遊び文字、ゆる文字が書いてあり、その文字で飾られたカードやカレンダーなどが何種類もテーブルに並んでいた。
 そこには、私なんかが書けない文字があった。トメ、ハネ、ハライにこだわっていない自由な文字だ。心がほぐれるようなかわいらしさがあって、ひとまとまりの均整もとれている。きちんとした文字ばかり見てきた私は、今まで知らなかったわくわくする空間へ連れていかれた気持ちになった。個性的でいいな。
 テントの中の女性に「その文字、かわいいですね」と声をかけてみた。「ありがとうございます」と、筆を止めて顔を上げた彼女は、にこにこして答えてくれた。そばかすもチャーミングに映る笑顔だ。白いTシャツの胸には、ゆる文字で「福」と書かれていた。
 ゆる文字で結婚式の挨拶文を書いてほしいと友達に頼まれて、それから自分流の文字に自信が持てるようになったと話してくれた。それ以来、手づくり市で文字を売っているらしい。イベントの案内文やカフェのメニューにと注文してくれる人も増えてきて、やりがいがあるとも言っていた。
 初対面の人と相手の顔を見ておしゃべりした。それだけで、気分がやわらいだ。

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