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エッセイ「日記帳を繰る」

 京都府船井郡八木町で暮らしていた祖父が亡くなって、藁葺き屋根の家を叔父が片付けていたところ、祖父の日記が見つかったという。私も読ませてほしいと頼んで、預からせてもらった。
 手元にあるのは、昭和28年9月1日から昭和43年12月31日までの大学ノート5冊で、ページをめくるたび、カビの胞子が飛び散っていそうな古めかしいノートだ。開いて左のページは「1」~「15」、右のページは「16」~「31」、曜日の横の「○・△・×」は天気のようだ。1日につき1行か2行、ぎっしり文字が書かれている。15年間のどのページもこんな調子である。

 ノートの後ろのほうに載っているのは「養蚕成績日記」「苗代種まき表」「米収穫量」などで、興味深い。時が進むと「年賀状送り先」「電話番号」も。昭和28年の「苗代種まき表」は「東山61号」5筋、「農林22号」3筋、昭和34年では「新千本」6筋、「山陰46」2筋。筋ごとに名前が記されているのは、地主さんか、集落の仲間か。
 自分の経験に農協や仲間からの助言も加味して、毎年、試行錯誤しながら米作りをしていたのだろう。歴史に詳しい知人に話すと「農業史を研究している人の史料になるかも」と言う。なるほど、日常の一つ一つの記録は、時を経ると貴重な文献になり得るかもしれない。

 昭和29年7月24日、アユ29匹、850円とメモがある。母に聞くと「その季節になったらアユの買い取りに来てた人がいたなぁ」ということだ。
 昭和38年6月30日、アユ釣りの解禁日に祖父と父が川へ行ったことが記されている。アユは一匹も捕れずに、午後はゴリ捕りをしたと書いてある。このとき、祖父51歳、父29歳、二人とも今の私より若い。父からは「釣りは二人の共通の趣味で、よう行ったなあ。胸まで川につかって捕まえた」という思い出話が聞けた。私は、二人の釣りの様子を俯瞰して眺めているような不思議な気分になった。そして、義理の親子でこんな時間を持てていたことがわかってほっとした。
 両親の話は「そうなんや」と初めて聞くこともあって、一行だけの日記から、そこにあった物語を幾通りも想像できる。

 春になると、田んぼに一面のレンゲが咲く。このレンゲは自然に咲くものとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。以前にテレビで、レンゲの根は田の土の栄養になるからと、種まきをしている人の映像を見たことがあった。日記に「レンゲ入れ」「レンゲ刈り」の文字を見つけ、祖父が手間をかけたからこそレンゲが咲いていたのだと、改めて祖父の苦労を思った。

 預かった日記帳には、何か所も付箋が貼られている。そこには叔父の名前が書いてある。「家でのんびり見てるねん」と言っていたので、叔父が貼ったのだろう。修学旅行、体育大会、卒業式の文字が読める。私も、私の名前が書かれたところがないか、探す。私が生まれた日の記述は「もみほし、小屋仕事。てる子、京都より帰らず」で、私の名前はない。当たり前か。まだ名前がついてない。てる子おばあちゃん、私のために京都へ来てくれたんやね。
 最初に私の名前の文字が読めたのは昭和39年12月28日、生まれて2年2か月後。私を連れて帰ったらしい。どういう状況だったかは読み取れない。なにせ1日1行の日記だから。たくさんの事柄を書けないところ、この日は私のことをメインにしてくれた。
 昭和40年5月31日「京都行き。5時帰宅。名秀子を連れて帰り、夜また連れて行く」とある。2歳半の私、昼間は機嫌がよかったのに、夜になると母が恋しくなり泣きやまなかったので、また京都の家に連れて行った――この話を何度となく母から聞いたことがある。迷惑かけたなあ。

 このころから、祖父は田畑の世話をしながら京都市内の会社に通うようになり、我が家にもしょっちゅうやってきた。
 昭和43年12月24日「会社行き。ケーキを持っていき、名秀子にやる。泊まる」とある。おじいちゃんサンタクロースは、このときから始まったようだ。以来、毎年12月24日にケーキを1ホール持ってきてくれた。25日は大阪のいとこの家にサンタクロースが現れた。

 祖父の会社のクリスマスパーティーに連れて行ってもらった記憶もある。会場で紙製の赤いとんがり帽子をかぶせられ、その場の賑やかさにどうしていいかわからず、壁に背中をくっつけていた。無愛想の私とは対照的に、声をかけてくれる人に、祖父は「孫や」とにこやかに振る舞っていた。
 昭和43年12月26日「会社行き。本日クリスマスパーティー有り。拾周年記念、都ホテルにて。名秀子を連れて行く夜となる」と書いてある。私の記憶は確証された。しかし、26日にクリスマスパーティー? 26日しかホテルが空いてなかった? このころは26日でもパーティーを開いた? 日記帳の25日の行に書き切れずに26日の行にまたがった? 正解は今となってはわからない。このまま置いておこう。

 日記には、平日は会社勤め、日曜日は野良仕事の様子が書かれていて、年中忙しそうだ。懸命に働いていた祖父、寄り添った祖母がいとおしい。たまに二人で農協主催の旅行に参加したり、娘や息子の学校行事に参列したり、そんな姿も垣間見えたので、仕事以外の時間も少しは持てたのだと、ちょっと安心した。
 
 祖父が映画を見に行こうと言うので、新京極商店街の映画館まで二人で自転車を走らせたことがあった。そのとき見た映画は「タワーリング・インフェルノ」。本格的な洋画を映画館で見たのはこれが初めてだった。
 インターネットで検索したところ、昭和50年6月に公開されている。超高層ビルが火事になり、消防隊員やビル設計者が消火と人命救助に奔走する物語である。スクリーンから炎が飛び出してくるようで、座席で緊張しっ放しだった。なんでこんな怖い映画を私に見せたん? おじいちゃんがどうしても見たかった? 私は見たいと言った覚えはないけど、覚えていないだけで、おじいちゃんは私が見たがっていると思った? 検索を続けると、ミュージカル版「星の王子さま」、ディズニーアニメ「ロビン・フッド」も同時期に公開されていることがわかった。おじいちゃん、このどちらかの映画を私に見せたかった? 新京極には映画館がたくさんあったので入る映画館を間違えた? そういえば我が家にケース付きの本『星の王子さま』があった。誰が買ってくれたのかな。

 昭和50年といえば私は中学1年生。国語の先生に「日記を書いてみましょう。お天気のこと、1行でもいいから」と言われて、日記を書き始めた。ベテランの風格がありながら優しそうな女の先生、初めての授業で「次の授業までにみんなの名前を覚えてくる」と言われた。そして次の授業、本当に三十数人全員の名前をすらすら口にされた。それにすっかり魅了され、もともと好きな国語をこの先生から教えてもらえるのが心地よく、先生の言われることはすぐ実行し、それから今まで日記を書くことを続けている。

 「タワーリング・インフェルノ」について、私が何か書いてないか、書いていたらおじいちゃんの様子もわかるかと、押入れの奥の段ボール箱から「№1」の日記帳を引っ張り出して、開いてみた。始まりは昭和50年9月5日金曜日。ああ残念、映画を見たのは、このほんの少し前のことだった。どうしておじいちゃんと映画を見に行くことになったのか、真相はわからずじまいである。

 祖父の日記帳と一緒に保管されていたのが「軍隊手牒」、濃い茶色の表紙で、てのひらにのる。民俗博物館に展示されているもののようで、祖父のものだという実感が湧かなかった。ぼろぼろと崩れてしまいそうだけれども、丈夫に作ってあるのか、ページをめくると1行1行にぎっしり詰まった小さい文字が読める。

 一度も怒られた記憶がないと母が言うほど、穏やかで優しい祖父が、農家の一青年が、否応なしに召集された時代があった。「目の前でばたばたと人が倒れていって、それはひどいもんやった」と祖父が話していた。戦争の話を聞いたのは一度だけで、どういう状況でこの言葉が発せられたのかは思い出せないが、それまで見たことのない険しい顔だったことは覚えている。祖父は凄まじい経験をしたということは、ずっと心に留まっている。

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