何者なんだ


なんとなく3連休の真ん中の夜だし、ちゃんと書く。

私についてなので、興味がなければお戻りください
中学のころから今について書こうと思う。

中学の時、バレー部でした。まあ派手な子たちの集まり。周りはスカート切って短く履いて、ピアスを開けて、ちょっと髪を染めて、いわゆる不良。
そんな友達と一緒にいたから、私まで先生に怒られてた。
スカートはぐるぐるに折って、恋愛と部活しかしてなかった。

中学3年の時、3者面談があった。担任の先生に「このままだと高校行けません。ファミマの店員かもしれないよw」って言われた。高校に行けないという選択肢がなかったし、普通にいけると思ってた。

高校は、私立の女子校に進学した。女子校に行くことにものすごい抵抗はあった。しかも、超校則が厳しい高校に進学なんて、想像もつかなかった。肩まである髪はおさげに結い、決められたカバン、スカートは膝丈、寄り道禁止。屈辱でしかなかった。

檻の中に入った気分だった。入学してすぐに、3年間この檻にいたら死んじゃう!って思った。幸い、この女子校には姉妹校の留学先があった。2年生対象の枠が2つあった。応募者は私含め、3人。しかも2人は2年生だった。無謀なチャレンジをしたが、なんとか合格した。8月から半年間ロスアンゼルスの高校に留学が決定した。檻から出れるチャンスを得た。

留学してからが大変だった。聞き取れない。英文法がわからない。知らない単語との戦い。けど、それ以上に楽しむ力があった。わからなければ、聞けばいいし、知らなかったら調べればいい。別に恥ずかしいことではなかった。友達も増え、留学が終わる頃には学校中の人がI MISS YOUって言ってくれたのが嬉しかった。一歩踏み出す勇気を得られたし、そして何より世の中の見方が変わった。

アメリカ人のなんでもはっきりいうこと、素直なところ、そして言論に責任を持つスタイルは好きだった。

初めてアジア人と自覚したのもアメリカに行ってからだ。「アジア人」と差別的にいうレストランの店員、バスの運転手とかと出会って、初めて歴史や価値観の違いに遭遇した。

アジア人ということに対して、アイデンティティを持ったのも16歳の時だ。ホストファミリー
がフィリピン人ってことからアジアのエネルギーをひしひしと感じ、アジアで勉強したいと思うようになった。

日本に帰国後、まあ、高校の授業についていけなかった。(数学は高1でギブアップをしたため、全然できません。。。)けど、漠然とアジアに留学したくて、大学について調べるようになった。

ちなみに中学の時の私は大学に行くという選択はなかったので、母に「大学行きたい!」って言っただけで褒められた。(笑)

アジア圏に留学できる大学で探し、「亜細亜大学」と「東京国際大学」が出てきて、速攻志望校亜細亜大学にした。

母に、なんで偏差値50のところを目指すのか?問われ、よく調べなさいと怒られ、もう一度考え直した。

調べて、出てきたのが青山学院大学地球社会共生学部だった。地球規模の課題に対して、多角的な視野を持つというミッションのある学部で、これこそが私が学びたい分野に近かった。学部名は長ったらしく今でも噛むけど、私は好きだった。

私には到底無理に近かったが、志望校に設定して、高校2年生の春から勉強し始めた。中学の時の偏差値は、35とか38とか測定不可に近かった私にとっては無茶な設定だよ(笑)
よくもまぁ、自分も挑戦したな!(笑)

がむしゃらに勉強した。初めて、勉強というものが好きになったのも高校生の頃。学ぶことが快感だったし、嬉しかった。毎日11時間くらい勉強しても苦ではなかった。世界史の教科書が破れて、ガムテープ止めるほど使いこんだ。

大学は無事に志望校に合格した。泣くほど嬉しかった。何より喜んでくれたのが、担任の先生だった。中学の頃の担任には、怒られまくっていたが、高校の担任は最後まで私のことを応援してくれた。親以外の大人がちゃんと私のことを考えてくれることが嬉しかった。

大学に入ってから、念願のアジア圏に留学した。けど、もの足りなかった。留学中友達は旅行行ったり遊びに行ったりしていた。
私は、全然楽しくなくて、アジアのリアルを知りたく、留学中インターンをし始めた。アジアで働いている駐在員の人と話す中で視野が広がった。楽しく働いている姿が今でも印象にのこってる。

ゼミにも所属したけど、それも合わなかった。ゼミ合宿、ゼミ飲みなど一切参加できなくなった。そんな小さなコミュニティに存在して同調しなきゃいけない雰囲気があるのが耐えられなかった。本を読む方が視野が広がるし、美術館行く方が、脳が喜んだ。
友達との好奇心の矢印が違うことに気づいた。

大学で完結するのが嫌で、大学と企業の産学協同のプロジェクトを立ち上げ、そこの団体の代表になった。
内容は、社会人と一緒にイベントを企画運営。社会人と働くことが何よりも楽しかった。楽しく働いている人を見れたこと、そして働くことが他には変え難い楽しい!ということを学んだ。夜な夜な企画書を作ってたり、何度もメールを送ったり、日程調整したり大変ではあるがそれ以上に新しいことをやっている楽しさが勝った。(今とやってることは変わらないかもしれない)

そんな大学生活を過ごして就活生に突入した。

インターン含めて就活時期に70社受けた。リクナビ、マイナビ、キャリタスのメールの嵐。不合格の通知メール。死にたくなった。私は、自分の人生自分で意思決定してきたのに、なんで他人に決められなきゃいけないのか違和感だった。違和感はあったけど、内定というゴールなのかスタートなのかよくわからない新卒キャリアが築けないと思っていた。

会社のカルチャーに合わせにいったし、本音を言ったらダメだろうなとか怖気付いたし、自分のことを深く話せなかったし、、、

もちろん私にも落ち度はめちゃくちゃあると思うけど、

落ち続ける辛さよりも自分らしくいられないほうが辛かった。

友達は内定が出ている中、7月に私は就活をやめた。怖かった。今でも怖い。けど、迷ったら挑戦できる人になりたかった。

私は、就活には負けたけど、自分には勝ったと思う。

キャリアについてこの1年間ずっと悩み続けた結果、私はインターンという方法にした。心の中に残っているギャルのやってみなきゃわかんない精神卍が勝ってしまった。

「第一志望ですか?」という面接官のナンセンスな質問に対して、アホみたいな顔して第一志望です!なんて私は言えないし、「やってみないとわからないです」って正直に言い続けられる大人になりたかった。

それくらい正直に素直に話せるようになりたい。

正解のない人生だし、答え合わせなんてすることないけど、自分の人生を自分の力で切り開きたかった。自分の人生の主役になりたい。誰の真似もしたくないし、誰のレールにも乗りたくない。友達になんて言われようと、社会の荒波に揉まれようと私は私である必要がある。そんな私は愛おしく思うし、自分があるから他者を愛せるし、共に生きていける。そんな気がしてる。
だから今日も学び続ける









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