クリストファーノーランの地平

「形式と内容の一致にこそ美がある」とは美術史における一つの終着話ではあるのだが、その言論人の最たる例の1人がグリーンバーグだろう。

バーネットニューマンのカラーフィールドペインティングを、形式性であり、近代美術の到達点と捉えた。

ニューマンのジップが、構成主義の残滓であるならば、ノーランが描く映画の形式主義は全く別の意味での残滓と捉えられるべきだろう。

ハンスジマーのリズムが作る倍音のドラマ性により、我々はグリーンバーグの先の世界へと誘われる。

ノーランの作品に一貫して流れる、執拗なまでの形式への回帰的な問いは、ニューマンのそれとは違い、それがひとつのコンテクストとして、作品に内包されているのであり、いまや内容と化している。
ノーランは形式主義を用いているのであって、それと戦ってはいない。そうすることで彼は逆に、内容と戦っており、それは社会風刺やエロスに満ちた豊作な葡萄であり、むしろ神を、母を描き続けたダヴィンチの芸術性と似た空気感を帯びている。

神と人との、その一致性こそが、ノーランのテーマであり、哲学であって、彼はそこに留まり続けている。それはインセプションでは家族であり、インターステラーでは恋人であった。そしてダンケルクでは、国でもあったのだから、ノーランはその意味で、世俗へ戻った天使であり、共同体主義者とも言えよう。

インセプションのラストシーンで回り続ける駒は、彼の決断を表しており、その決断こそが映画を完結させていたことは事実だが、ダンケルクにおいては駒は回らなかった。コンテクストを超えて神の創造物を愛でたのであり、純粋に形式主義的な傾向が強まったと捉えられよう。それはフェルメールの芸術と似た空気感を帯びており、雪舟の描く岩肌のようでもある。

だが、ノーランの優しさや甘さが、乾いた銃砲に物語を残してしまう。それがノーランの大衆性の地平なのかもしれない。

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