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芸術は怖い ようやくわかる

ずっと、文学は最強だと信じてきました。読書体験だけではなく、小説を書くという行為そのものが素晴らしいと。その人の精神性を高め “はたしてどう生きていったらいいのか“ という問いに対する答えを与えてくれるものだと。

だから、何かを表現したい、訴えたい、自分とは何かと探している人に、「小説を書くこと」を勧めてきました。

文学も芸術の一つです。かつてドイツの文豪であるトーマス・マンが書いた小説『トニオ・クレーゲル』の中で、主人公が「芸術にちょっかいを出す人生ほど痛ましものはない」と言っていたように、芸術というものは、その人の人生に見返りを必要とするのが常です。

高見を目指せば目指すほど、命を削るというか多大な代償を払うことになります。それは小説家に限らず、役者も、画家も同じでしょう。ゴッホがいい例でしょう。

それ以外の生き方ができなくなってしまったとき、選べたはずの他の人生の可能性は、急激に狭くなります。演劇に賭ける、小説に賭ける。

言葉で言うだけなら格好いいし、やりたいことが見つかるだけで人生における一つ達成かもしれません。

しかし、それはあくまで成功(成功の定義は人それぞれですが)した人に言えることです。演劇に殉じた、絵に殉じた人、たとえ没後に評価された人を含めて、もしなれなかった場合、悲惨な人生(特に金銭)になります。

そんなお金のことはどうでもいいというような意気込みがなければ、何事も成し遂げられないとは思いますが、やはりそれを言えるのは若者の特権な気がします。

大人になり、家族を持ち、稼ぐための仕事を持つと、そうは言っていられなくなります。やはり、多くの人は、そこである意味青春の夢として、ある時期が来ると自然にピリオドを打ちます。

ただし、本当に芸術に真に魅入られてしまった人、家族すら見向きもせず、ひたすら己の芸術だけを追い求める真の芸術家は、自分でピリオドを打つことなどできようがありません。死ぬまでやり続けることになるでしょう。

私のように、人から認められようとなかろうと、文学、物語を作ることに魅入られてしまった人は一生書き続けなくてはいられないと思っていました。そこには、お金以外の様々な目に見えない果実があると。

しかし、最近、生活費を稼ぐための仕事のストレスから精神のバランスを崩して、改めて自分の人生を振り返ったとき、その目に見えない果実は、果たして自分を幸せにしたのかと思ってしまいました。小説なんて書かなければ良かったとすら思いました。もっと、まっとうに生きる方法があったのではないか。違う人生の可能性。

そして再び、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」からの引用になりますが、「芸術家は、善良な市民とならず者のどちらにも安住できずに、その間を永遠にさまよい続ける孤独な旅人である」と。

太宰治流に言えば、成功できなかった芸術家とは「歯も抜け、ぼろぼろの服を着た貧しい辻バイオリン弾き」でしょう。

ただし、「その哀れな辻バイオリンしか演奏できない調べというものがある。それを信じたい」と付け足していますが、今の自分はそこまで言い切れる自信はありません。

つまり、文学は最強であると信じる気持ちは変わりませんが、誰もが一度は小説を書いてみて欲しいと、むげに言えなくなってしまいました。

本当の芸術とは、ドラッグのようなものであり、軽い遊びの気持ちでも手を出すと、人によっては人生を狂わせるかもしれません。

小説は、パソコンがあれば書けてしまいます。だからこそ敷居が低い、芸術のゲートドラッグとして、もっとも入りやすい分野かもしれません。

というわけで、最近、芸術というのは本当に怖い。歴史に残った芸術作品とは、死屍累々の志願者の山の上に立てられた墓標のようなものだと思うようになってしまいました。

と、老いつつある、とある辻小説家の独り言でした。

ではまた

このトーマス・マンの小説は、本当に素晴らしい。個人的なバイブル。


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com