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文学に賭けるって、なかなか言えない

覚悟って
意外にできない。そう簡単なものじゃない。

「覚悟を決める」、「これに殉じる」、「結果に従う」
言うなれば、自分が決めたことに責任を持つってことだけど。

どうしても、歳を重ねると、結果を想定して、あれこれ安全策を講じたり、
逃げ道を造っておいたりと、決断に対する、潔さが消えていく。

どちらかというと、うじうじ悩み、あれこれ意見を聞き、その上で覚悟っぽいことでごまかす術を覚えていく。

まあ、それが歳を重ねるとい意味かもしれない。若気の至り、無謀をしないこと。
そして、それは別に、天下分け目の戦いや、就職先の選択などの具体的な事例に対する覚悟もあれば、「文学に賭ける」、「ロックに賭ける」という人生の態度というか、方向性についての覚悟もある。

「文学に賭ける」とは、人生の成功も失敗も、お金も地位も、文学をやっていく上で得ていこう、その結果や責任はすべて負うっていう意味になると思う。

つまり、「文学」を生活を含めた、生き方そのものにしてしまうのだ。
果たして、文学を生き方にしてしまったとき、人はその覚悟に一生耐えられるものではない。

人生は見方によっては長い。進学、就職、結婚、子育て、病気、言うなれば「病老死苦」と向き合いながら、文学にすべて全賭けし続けられるのだろうか。

多くの人は、きっとどこか妥協して、文学を人生のサブに置いてしまう。というより置かざるを得ない。そして、サラリーマンの生き方、公務員の生き方を意識の中心に置く。

そして、いつかそれらの中心の態度が終わったとき、再び文学をやればいいやと自分を納得させる。しかし、いつしか念願の、文学に再び向き合えたとき、かつての熱い気持ちは失せ、完全にふぬけになっていた自分に気づく。あのときの熱いたぎりのような気持ちは、もう二度ともどらないと。

覚悟とは、人の一生で一度するかしないかのものだと思う。そうやすやすと決めたり、引っ込めては出すものではない。

だからこそ、覚悟とはどこか、人生を賭けた血みどろのジャッジのような気がする。いきなりのたとえで恐縮だが、大リーグの大谷選手は、おそらくどこかで覚悟したと思う。そして未だにぶれていない。
そのぶれなさこそが、ある種の突出した才能だと思う。

そう、大谷選手に限らずとも、覚悟なくしては、ある特殊な技能の世界では必須なのだ。
そして、マイナス面ばかり見て、妥協ばかり考えてした覚悟は、いつか必ずどこかでひっくり返る。

「文学に生きる」、その覚悟の失敗例、つらさ、マイナス面は、過去の多くの作家の悲劇を少し見るだけでもわかる。

果たして、「文学に生きる」その覚悟はおまえはできるのか。そして、人に胸を張って言えるのか。少なくとも、自分としては人様には言えなくなってきた。

何事も覚悟なくては成功しない、とにかく「覚悟しろ」とは。

いろんな人生の不安との戦い。若い頃、意を決してした覚悟。これを一生揺るがせないで貫けた人こそが、最後に成功しようとも、行き倒れて死んでしまおうとも、アル中で死のうとも、結局は、人生の勝者だと思う。
ただ、別に勝たなくてもいいわけだけど・・・。

“ 覚悟しろ 桜を見て 思う春 ”


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