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再び東京へ 芸能界覇者への道 その1 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(15)

入社一年目で東京に転勤

まことにいい加減な社風ながら、上が働かないので、新入社員の分際で結構自由に仕事ができて、それなりに居心地のよい会社員生活を送っていた。
当時の吉本は、極少数の売れっ子芸人にだけマネージャーが付けられており、それほど売れていない芸人は誰がマネジメントしても良いという不文律があったので、僕は「ひっとえんどらん」という自分と同世代の落語家のユニットのお手伝いをすることにした。メンバーは、桂小つぶ(現 二代 桂枝光)、桂三枝の弟子の桂三馬枝、笑福亭仁鶴の弟子の、笑福亭仁幹笑福亭仁嬌の四人。若手落語家の中では人気が出始めており、ポストさんまを期待されていて、花月の出番ももらっていた。
そこで、ワンマンライブをやろうということで、もちろん当時は2丁目劇場もないので、大阪のお笑いや演劇の中心であった阪急ファイブ(現HEP FIVE)のオレンジルームを借りることにした。プロデューサーの中島睦郎は、お笑いだからと差別せず、快く貸してくれた。この方は、当時の大阪の学生演劇で世話にならなかった者は居ないといっても過言ではないだろう。
そこで、人生始めてのライブのプロデュースをさせていただいた。先輩に音響、照明、SEなどの業者の担当者を紹介してもらって、自分で手配し、チケットの発券、収支の取りまとめなど一通りの制作手法を学ばせてもらった。衣装と小道具は、吉本新喜劇や花月で収録している番組を担当している、大槻衣裳さんと北村小道具さんにお願いした。靴は波原靴店。衣装の信さんと小道具の徳さん、そして波原さんには本当にお世話になった。ただ北村小道具は店が京都で、祇園祭が近づくと徳さんは働かないので往生した。7月は上席、中席、下席と、早く台本を上げろ、小道具を発注しろとうるさかった。道具は、上席、中席まとめて劇場に持ってきて、中席にいたっては初日にも顔も出さない。本が変わって追加の小道具が出ても、用意しておくから取りに来てくれと言われたりもした。大槻衣裳さんは大阪の帝塚山にあり、信さんは、僕たちの無理なお願いをいつもボヤきながら聞いてくれた。お金のない若手のイベントは「儲かる仕事のとき返してや」とか「出世払いや」といって、無理を聞いてくれた。都市伝説だが、本来出すべきだった請求書をずっと残しているとの噂もあった。最後までちゃんとお返しできなかったのが心残りだ。
そして先輩社員は、業者の紹介をしてくれるぐらいで、誰も手取り足取り教えてはくれなかった。その頃には、吉本の放任主義に慣れて、逆にそれが心地よく感じるようになっていた。今にして思えば、イベントにしても、テレビ番組にしても、芸人にしても、それぞれ唯一無二のものなので、基本さえ分かれば、あとはその場その場で画を描いていかなければならないから教えようもないのだ。「赤字を出さない」という原則さえ守っていれば、とくに何か言われることはなかった。
ということで、初めて住んだ大阪という土地での会社員生活はそれなりに楽しいものだった。東京で暮らしていた学生生活は、意識したことはなかったがやや背伸びして疲れていたのだろう。僕には大阪の水が合っていたのだと思う。

そんな気分で大阪の吉本生活を謳歌していた頃、突然、大阪のマネジメント部門の責任者だった井上明課長から「中井、東京へ行ってくれ。大﨑を大阪へ返すから」と言われた。「お前、東京の大学出てるから、友達もいっぱいおるし、道も分かるやろ」ということだった。人事もテキトーだ。

嫌々ながら東京へ

それなりの交友関係も出来上がりつつあり、休みはないながらも、同期や先輩社員、同世代の若手芸人達と日々遊び歩いて楽しかった日々が1年余りで終わろうとしていた。
当時は今と違って、東京事務所転勤は本線から外れて可哀想という受け取り方が社内のムードだったし、僕自身、なんで飛ばされるのか分からないし、東京が合わなかったから大阪に来たのに、また東京かよという気持ちだった。
それと、先輩社員の中で唯一滅茶苦茶働いてるなあと思ったのが、東京事務所の木村政雄だった。これは相当働かされるぞと思った。漫才ブームは落ち着きつつあるとは言え、木村チーフの下で現場対応するのは僕と1年先輩の山崎善次郎しかいないのだから、その忙しさは簡単に想像できた。

そんなこんなでもやもやしていたので、井上明課長に「もう、会社辞めますわ」と告げたところ、「まあそう言うな。1年だけでも行ってくれ。俺が責任を持って大阪へ帰したるから」という反応だった。そこまで言われてゴネるのもみっともないかなと思い、「じゃあ行きますわ」ということになり、1982(昭和57)年7月、僕は東京に舞い戻った。大学院進学を止めて吉本興業に入社するという運命の分岐点に続く、2回目の分岐点でも、僕は吉本を選んだわけだ。

赤坂7丁目のストークビル赤坂の一室に、当時の東京事務所はあった。住むところはその向かいのミツワビルの3DKに1年先輩の山崎善次郎と住むことになった。

仕事は予想通りハードなものだった。朝7時頃に赤坂のマンションを出て羽田空港に芸人を迎えに行き、フジテレビ「笑ってる場合ですよ!」(1982年10月4日からは「笑っていいとも!」)のリハーサルのため新宿のスタジオアルタに9時半頃入る。生本番後、出演芸人に次の仕事が入っていない場合は、番組スタッフと昼ご飯を食べ次週の打合せ。その後、別の芸人の現場へ行き、その芸人が夜までスケジュールが埋まっていれば、そのまま最後の仕事までフォロー、仕事がなければ送り出しをして次の現場へ。毎日現場が終わるころには日付が変わっていた。

そんな忙しい日々の中でも一番楽しかったのは、隔週水曜で二本撮り収録がホテルニューオータニのクリスタルルームであるテレビ東京「さんまのサタデーナイトショー」の日だった。昼はニューオータニのカレーを食べて、とても面白い本番に立ち会うだけ。明石家さんまは全く手のかからない人であるだけでなく、話していて(楽屋でもほとんど喋っている)も、とんでもなく面白いだけでなく、情報量が多く、そして常に何らかの気付きがあるトークを繰り出してくる芸人だった。そして、その収録終わりで、河田町のフジテレビに入り、「オレたちひょうきん族」の収録に参加するのだが、それが終了するのがだいたい27時(午前3時)ごろになるのだが、それでも楽しくて仕方がなかった。
地下のタレントクローク前に長机を2台とパイプ椅子を数脚置いて「ひょうきん本部」を設置し、そこには時間が空いている出演者、スタッフがそこでいろんなアイディアを出し合うというクリエイティブで勢いのある場になっていた。口にはしないものの、ドリフを倒せという高い熱量で議論していた。
ホタテマンを演じる安岡力也が本部に座っているときは、「担当は中井さんね」とみんな居なくなってしまうのには困ったが。興行会社の社員ということで恐い人に耐性があると勝手に思われたらしい。
ある日、ブラックデビルの最期をどうするという話になり、僕が「O・ヘンリーの『最後の一葉』のパロディやったらどうですか。ベッドから外を見て『あの最期の葉っぱが落ちたら私も死ぬ』とブラックデビルが言って、タケちゃんマンが励ましていたら、植木屋が出てきてその葉っぱをハサミで切ってしまうというは」と意見を出したら、三宅恵介ディレクターが「あ、いいね。それやろう」ということになった。企画が通った僕は嬉しかったのだが、翌週タレントクロークに行ったら衣裳さんが、「中井さん、これ」といって植木屋の衣裳を手渡してきた。「え、僕がやるんですか」と聞くと、通りかかった三宅恵介ディレクターが「言い出した人がやるんだよ」と言われ出演した。後に発売されたDVDにも収録されている。
いかりや長介からは、我々が遊んでいるように見えたかもしれないが、ひょうきん族は、ドリフのように日本人だれにでもウケる国民的喜劇を目指す公開番組ではなくスタジオ収録で、分かってくれる同世代だけ笑ってくれれば、あるいは俺達の笑いについてこれるかという、よりテレビ的な笑いの瞬発力を大事にしていたように思う。そしてその力が群を抜いていたのが明石家さんまだったと思う。
そんなある日、その4月に開校したNSCの生徒のネタを観に大阪まで行ってきた山縣慎司ディレクターが、「良いのが一組だけいたよ。紳竜のコピーみたいなの」と言っていた。僕は「コピーだったらそんなに期待できないな」と、その時は思っていた。

ダウンタウンとの出会い

一番楽しいのが明石家さんまフォロー日だとすると、一番緊張するのが横山やすしフォロー日だった。やすしきよしはコンビの仕事も多かったが、それぞれピンのレギュラーも多く、大阪の現場マネージャーは西川きよしに付くことが多く、必然的に横山やすしは東京事務所側でフォローすることになる。その上、1年先輩の山崎善次郎は、彼にこっぴどく怒られて、どつかれるか蹴られるかして、それ以降絶対に彼の現場には付かなかったので、横山やすしが一人で東京に来る時は必然的に僕がフォローすることになった。
とはいえ、僕はかなり横山やすしにハマっていた。ハマるというのは、「気に入られる。贔屓される」というようなニュアンスの吉本社内用語である。
「中井さんは木村政雄の弟子やろ」「はい」「俺はなあ、好きな人の弟子は好きやねん」と言っていただいた。横山やすしが新入社員を「さん」付けにして呼ぶのには理由がある。「いつ誰が社長になるか分からんやろ。せやから普段からさん付けにしてんねん」とのことだったが、酔ってくると「こらおのれ、(水割りが)薄いやないかい」と「おのれ」扱いだったから説得力はまるでなかったが。
いずれにせよ、その御蔭で1982(昭和57)年11月にダウンタウンに初対面することになる。
横山やすし荒木由美子が司会のテレビ朝日「テレビ演芸」の「とび出せ笑いのニュースター・ホップステップジャンプ」という若手芸人の、1対1の対決コーナーがあり、そこに出場者としてダウンタウンが送り込まれてきたのだ。当時はまだグループ名がなく、僕の発案で「横山さんは飛行機が好きやから、ライト兄弟でどや」「はい、それでいいです」と暫定的に決まった。
ところがこれが裏目に出る。
ダウンタウンのネタが始まると、滑舌が良いとも思えない松本の喋りに会場も審査員も引き込まれていった。「親みたいなもんは安心さしたらいかん。いつでも殺せるねんぞと思わせて置かなアカン」というセリフがあったとき、セットの裏で水割りを飲んでいた横山やすしと目が合った。手招きされ側に行くと「これどこの子や」「うちのNSCの生徒です」「ふーん、そうか」と言われた。嫌な予感がしたが、案の定、終わってからの感想で、「親を殺すとか、チンピラの立ち話みたいなことしやがって。聞いたらうちの研究生やちゅうやないかい。二度と俺の番組に顔出すな、このウスラバカ」と言われた。多分、この部分は放送ではカットされていると思うので、覚えているのはダウンタウンの二人と僕だけだと思う。
この感想があった途端、大爆笑していた審査員の大島渚糸井重里らは沈黙し、高信太郎は酷評に転じた。結果は、ダウンタウン初の敗北。
ただ、僕はこのとき、「紳竜のコピーちゃうやん。今までの漫才の系統図のどこにも入らへんやつらや」と思ったのを覚えている。彼らの漫才は、印象が強烈なので一度聞いたら忘れない。しかし、もう一度聞いても「ああ、このネタか。前に聞いたわ」とはならず、「おお、このネタか」と音楽ライブで大ヒット曲を聴くような高揚感があるのだ。こんな漫才師は見たことがなかった。残念会として、三人で晩ごはんを食べに行ったとき、興奮して僕ばかりが話した記憶がある。事務所に戻って、木村チーフに報告したら、「俺は銀次・政二の方が面白いと思うけどな」と言われたことも忘れられない。

しかし、後年、横山やすしダウンタウンに「自分等、ココ(腕を指差す)もあるし、行けるんちゃうか」と彼らの実力と将来性を認める発言をした。ただその後「あれっ。自分等、前からダウンタウンって言うてたか」と気付かれそうになったのだが。

紛れなき天才 横山やすし
漫才にはシビアなくせに稽古は好きではなく、酒は好きだが強くはなく、豪快なようで繊細で、金は稼ぐが借金も多く、攻撃は強いが防御が弱いという矛盾だらけの人だったが、寂しがりやで放って置けないような魅力のある芸人だった。亡くなってしまったから美化しているのではないかと言われそうだが、その通りである。実際に現場についているときは「こいつ殴って会社辞めたろか」と思ったことも度々だった。
ただ、横山やすしには芸人としての「」があった。同世代の誰よりも。
結論に、曖昧な「」という概念を持ってきて申し訳ないが、この言葉で説明しがたいものが、実は芸人として一番大事な要素なのだ。歌手で一番大事なのは、歌が上手いということより、その「特色のある声」であるように。これは、持って生まれたもので、努力で獲得できない、ある種残酷な事実である。

今回は、マーケティング的なことはあまり語っていないうちに5,000字を超えてしまったので、続く

(文中敬称略)


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