芸人達との別れ 再びスタートラインに (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(7) 

失われていく劇場

戦争に夢を砕かれたのは弘高だけではなかった。兄の正之助も、30年以上かけて築き上げてきた演芸王国を、戦争によって瓦解させられつつあった。
1944(昭和19)年3月20日、吉本は大阪府保安課長指令により大阪花月劇場、南地花月、新世界南陽演舞場を休業させられた。
一ヶ月後、大阪花月劇場だけは休業を取り消されたが、その一年後の1945(昭和20)年3月13日の大空襲で、舞台の一部と裏手の吉本興業の本社屋だけを残して焼失してしまった。戦時下でのお笑い興行の政府当局による規制強化だけでなく、米軍による空爆攻撃という物理的破壊行為によって演芸王国は危機に追い込まれていく。
奇跡的にその大阪花月劇場から150mほど北にあった千日前常盤座が屋上屋根の損壊だけという軽微な被害で残っていた。突貫工事で屋根を修復し、慰問報告などの興行を続けたが、大阪の中央部は壊滅状態という状況の中ではその努力も報われたとは言えなかった。
その三日前の同年3月10日には東京でも大空襲があり、神田花月江東花月劇場が焼失。それと前後して、神奈川県下の劇場もすべて灰燼に帰してしまった。
東京と大阪以外の主要都市の吉本の劇場も、敗戦濃厚になる戦時下での経営状況の逼迫や度重なる空襲により殆どが終了を余儀なくされた。
名古屋の旗艦劇場の「名劇」と呼ばれた名古屋劇場が終戦直前に閉館、大須の赤門劇場は空襲で焼失。和歌山劇場も空襲で焼失。空襲がなかった京都の、富貴京都花月劇場だけが無傷で残った。
所属芸人、ダンサー、歌手を自社劇場以外でも活躍させるために弘高が始めたエージェント事業は、皮肉にもその殆どを慰問事業に費やされ、会社の基礎になる自社劇場は閉館や焼失してしまったのだ。それは吉本興業の危機であり、演芸そのものの危機でもあった。
そのような状況の中、
「今ほど笑うことの大切さを実感した時はありません。戦時下という過酷な状況やからこそ、笑いは求められています。そんな要求に応えられるのは我々だけです。笑いこそ生きるためのエネルギー。誇りと自覚と使命を持って活動しよう」
弘高は社員や芸人にこう語ったそうだが、これは戦時下に限られたものではなく、今の吉本の芸人、社員は常に意識しておくべきことだろう。

専属芸人を全員解雇

1945(昭和20)年6月、吉本は断腸の思いで重大な決断をした。空襲が続く非常時下、芸人たちの将来を慮って、貸し金のすべてを退職金代わりに帳消しにし、今後演芸業務があれば予定の許す限り出演させ好待遇で迎える約束をして、所属芸人すべてを専属から解放した。
当時部長だった橋本鐵彦は、「長年、吉本において芸を磨き、夫々の葛藤に悲喜を分かち合ってきたこれらの演芸人たちは、これからの生活に一層の不安を募らせつつ、寂寞たる気持ちでその場を去っていった。」とメモに綴っている。
これは、単に経営上の判断という生易しいものではなく、吉本のアイデンティティを全否定するほどの出来事であった。切る方も切られる方も血の涙を流しながら別れたのだ。第二次世界大戦の終了とともに、日本一の演芸王国も崩壊した。
しかし、ただ一人、花菱アチャコは専属解消の申し渡しに頑として応ぜず、亡くなる1974(昭和49)年まで、吉本興業専属を貫き通した。

復興への意志

非常時下においては活動を著しく制限され、復興時には政府から生活に最も不必要な産業であるという評価を下される娯楽産業、特に仕込みに資金が必要な演芸やレビューをやってても経営が成り立たないという冷酷な判断に基づいてのみ芸人との専属契約を解消したわけではなかったということが、戦後すぐお笑いの舞台を復興させようとしたからも見て取れる。
終戦の日からたった2週間後の1945(昭和20)年8月30日には、伴淳三郎の軽喜座と淡谷のり子の歌で、東京の浅草花月劇場が再開した。
その動きは大阪も同様で、終戦1ヶ月後の同年9月15日、わずかに焼け残った舞台を利用してバラック建ての寄席小屋として大阪花月劇場がオープンした。専属契約は解消したが、舞台には出られるよう芸人達に声をかけていたのだ。
無傷だった京都花月劇場も、花菱アチャコ劇団や横山エンタツ劇団などを開催していた。
食べるものもままならない終戦直後の混乱の中でも、当時の芸人と社員は敗戦で落ち込んでいる市井の人々に笑いで生きるためのエネルギーを得てほしいという使命感で立ち上がり進み始めた。

進駐軍向けキャバレーを経営

そんな演芸復興への気運の中、吉本に厄介な要請が京都府からあった。
京都にも米軍将兵が進駐してくるが、治安維持の観点からも、彼ら専用の娯楽施設(占領軍専用ダンスホール付きキャバレーと映画館)を必要としていた府側は、祇園に甲部歌舞練場と弥栄会館、そして八坂クラブの提供を求めた。本来なら進駐軍からの接収の要請があってはじめて交渉を開始すべきだろうが、京都府は勇み足をしてしまい、これが後々の災いの元となる。
最初は抵抗した祇園側も、京都府の執拗な要請に承諾することになった。ただ、キャバレーの運営には誰もノウハウはなく、しかも返還の際にトラブルが起こらないであろう運営先を見つけたい祇園は、京都府とともに吉本興業に経営を願い出た。松竹に頼んではどうかとの京都府側からの提案は、祇園側が断ったらしい。両者の間では何か揉め事を抱えていたようである。
この要請を受けた林正之助は現地を視察した上で、キャバレー経営の経験もない吉本は受けられないと一旦断っている。
しかし、「損はさせない。改装費も国に負担させるから、何とか引き受けてくれ」と府と祇園から頼み込まれて、不承不承引き受けることにした。
ところが、正之助の懸念は的中し、京都府は前言を翻し「政府とはまだ話がついてないから改装費は吉本さんで持ってくれ」と言い出し、戦後の財政難の中、多額の借金を背負うことになった。
そんな危機的な状況ではあったが、1945(昭和20)年12月27日に進駐軍将兵専用キャバレー「グランド京都」はオープンした。
弥栄会館も同年11月に「ヤサカ劇場」として占領軍専用映画館としてオープンし、翌年から日本人向けの洋画封切館「グランド会館」となった。
これをきっかけに、以後吉本の新しく開場する劇場の名称には「グランド」を付けることになった。
ところがキャバレーの営業成績は散々だった。経営と言っても、調達から入場料の設定まで占領軍が行い、決定権は吉本に無く、ただオペレーションを管理するだけで赤字はどんどん膨らんでいった。
1952(昭和27)年1月29日に一切の業務を停止し、同月31日に祇園新地甲部貸座敷組合に返還したが、その時点での赤字は当時の金額で数百万円だったという。
当時の資料に直接あたらず、言い伝えだけ聞いていた限りでは、戦後キャバレーで大儲けし、売れてきたら文句が多くなり手のかかる芸人を解雇し、ただフィルムを回していれば大きな興行収入を得られる映画に社業をシフトしたドライで有能なビジネスマンという林正之助像だったが、こうして検証を重ねていくと、その実直で慎重な姿勢も垣間見える。あくまでも垣間見えるだけで、実像とは言わないが。

映画興行への転換

終戦直後から、なんとか演芸を復興させようとしてきた芸人や社員の努力も虚しく、吉本の旗艦劇場である大阪花月劇場は、1946(昭和21)年9月20日に「千日前グランド劇場」として洋画ロードショーの上映館として、映画館に改修された。同年、実演を行ってきた千日前の常盤座も邦画専門の映画館になった。梅田には洋画の「梅田グランド劇場」を開場。これが後年うめだ花月になる。
東京も、浅草の大都劇場は1946(昭和21)年1月から洋画の上映館になった。ただ、浅草花月は笠置シヅ子を出演させ、進駐軍相手にジャズの公演を行っていた。この浅草花月だけは、戦前、戦中、戦後を通じてお客様に舞台でジャズを届けていた。
しかしながら、浅草花月劇場は浅草グランド劇場、横浜花月劇場は横浜グランド劇場に改称した。
何とか実演の舞台を復活させたい、それこそが本業だと頑張ってきた吉本興業だが、いよいよ映画興行の会社へとシフトしていった。

1947(昭和22)年に作成されたGHQの機密報告書「検閲と日本演劇の現状」によると、「日本演劇の三大会社は、松竹、東宝、吉本であるが、吉本は比較的貧弱な組織である」と散々な言われようだが、続けて「吉本はごく僅かな資本で運営され、無学な観客に娯楽を提供しているが、可能な限り、この国の民主化を進める劇を提供しようと努めている」とこれまた褒めているのか貶しているのか分からない評価をしている。ただ、吉本が必死に大衆に向き合って戦後の民主化に向かって舞台を作っていたことは間違いなく示されている。
そして、戦後日本のエンタテインメントへの逆風は、GHQの圧力だけではなかった。
急ピッチで国土復興を進めていた政府は、金融機関資金融通準則を定めた。これは、生活に欠くべからざるものに資金を優先的に使うために、産業に優先順位を付け、その高い順に甲種、乙種、丙種の三段階に分けられたものだった。娯楽産業は「不急」のものとして丙種に区分された。コロナ禍でも言われた「不要不急」の産業とされたのだ。当然のことながら、銀行等からの融資はなかなか受けられず、劇場の再建もままならなかった。
更に、1947(昭和22)年には、映画演劇の入場税が15割になった。15%ではない、150%も税金がかかるのだ。入場料が1,000円だったら税金が1,500円かかる。映画でも大変だが、一度の興行に照明、音声、大道具小道具等の大勢のスタッフが関わり、仕込みに資金がかかる舞台興行では、相当高い入場料を設定しなければならず、事実上諦めざるを得なかった。
後に、関係者の反対運動が功を奏し、シャウプ勧告という外圧の力もあって10割になったが、更に5割まで下がったのは1952(昭和27)年のことだった。
何度も言うが、手間と金のかかる芸人より、映画の方が楽に金儲けできるから映画興行に切り替えた、というわけではなかったのだ。

東京吉本のリスタート

東京では、戦時中に諦めざるを得なかった映画製作の機会が到来し、弘高は精力的に動き始めていた。
1946(昭和21)年修復なった銀座の通称「吉本ビル」をベースに次々に新機軸を打ち出していく。
同年、浅草や横浜の劇場を大阪吉本と分離し「吉本株式会社」を設立。東京のみならず、その守備範囲には名古屋も含まれていた。そして、その下に様々な戦略子会社を作り、それぞれの事業を推進していく。
YSB吉本事業社という、すぐにニーズのある翻訳、タイプ、広告を扱う会社も作ったが、何より急いだのは映画製作を再開させることで、その為に合名会社「吉本プロダクション」を設立した。この会社では、映画の製作だけでなく配給事業も行った。戦前、東宝との提携で同名の会社があったがそれとは別物である。
翌1947(昭和22)年には、東宝、日活、東横映画、東急等と「株式会社太泉スタジオ」を設立し、社長に就任する。続く1948(昭和23)年には、林正之助を社長として「吉本映画株式会社」を設立し、映画以外にも演芸の興行、配給も行うという会社であったようだが、映画製作において吉本プロダクションとの棲み分けがよく分からず、資料によって混同されていることがある。また、この年、吉本興業合名会社は改組して「吉本興業株式会社」となり、組織的にも体制を整え、復興への動きを本格化させていく。
翌1949(昭和24)年には、「吉本劇場株式会社」を設立、大阪の吉本から分離した劇場の運営を行った。
また、1952(昭和27)年、本社を改装した際に、ラジオ番組の録音スタジオを設置、「吉本ラジオセンター」を作った。ここでは、番組企画から録音、編集まで完パケでラジを番組を制作していた。所属芸人を放送局に貸し出すだけでなく、番組の内容までコントロールできて売上の嵩も上がるというこの手法は、後のテレビにおいても踏襲される。
芸人の専属契約を解除して、演芸場を映画館に変え、望んでいなかったキャバレー経営に苦闘していた大阪の吉本に比べ、東京は戦時下に課せられていた制限が解除された(もちろんGHQの制限はあるが)ことを好機と、様々な事業、特に映画を推進していった。

本格化する映画製作

終戦直後、笑いに飢えていた国民のために東宝が製作配給した「東京五人男」(監督 斎藤寅次郎)は、GHQの民間情報教育局(CIE)の指導による民主主義啓蒙を目的とした映画であったが、娯楽映画として受け入れられ興行的に成功した。闇物資を流通して利益を得る悪辣な権力者や金持ちを、庶民5人組が打倒するという社会主義的内容で若干の違和感があったのだが、当時の映画班の指導者のデイビッド・コンデはアメリカ共産党員であった。この主役5人のうち、東宝側が古川ロッパ一人で、残り四人のエンタツ・アチャコ、石田一松、柳家権太楼は吉本興業(専属はアチャコのみ)であった。
この後すぐに前述の吉本プロダクションを設立し、製作に乗り出していく。
吉本プロダクションは、東宝との提携作品として、1946(昭和21)年、エンタツ・アチャコの「俺もお前も」(監督 成瀬巳喜男)、1947(昭和22)年、東宝の労働争議のため吉本単独製作となったエンタツ・アチャコ、柳家金語楼、ロッパの「縁は異なもの」(監督 石田民三)を製作。この労働争議も前述のアメリカ共産党員デイビッド・コンデの影響だという。続けて、「浮世も天国」(監督 斎藤寅次郎)、「嫁入婿取花合戦」(監督 斎藤寅次郎)、「新東京音頭 びっくり五人男」(監督 斎藤寅次郎)など、エンタツ・アチャコを中心にした喜劇人オールスター映画は、戦後数年間、吉本プロダクションが担っていた。
一方、太泉スタジオでは、1948(昭和23)年、東宝・吉本提携の「タヌキ紳士登場」(監督 小田基義)を製作、同年製作の第二作目、田村泰次郎原作の「肉体の門」(監督 マキノ正博)は、そのセンセーショナルな内容で話題を呼び大ヒットとなった。自社の芸人主演の喜劇映画以外の作品で、吉本プロダクションの存在を映画界に示すことができた記念碑的作品である。
ちなみに、主演の元タカラジェンヌ轟夕起子は、当時マキノ正博監督の妻であり、沖縄アクターズスクールの創始者マキノ正幸の母である。

そして、宿願の海外展開も、映画で果たすことになる。「東京ファイル212」(共同監督 ダレル・マックガワン、スチュアート・マックガワン)を製作し、1951(昭和26)年1月に日本、5月に米国で公開された。これは日本で初の日米合作映画である。
マーカス・ショーに続いて、またもや日本初である。
弘高は、その思いを映画公開前年の映画雑誌「新映画」10月号で、こう述べている。

「最近太泉映画は東日興業と提携共同作品として『東京ファイル212』の日米合作を試みたが、おそらく困難と危険はあるがこれを完成せしめる事が日本映画の関係者としてドル圏内へ初めて出る映画であり、これが成功する事により、一本輸出の日本映画1900弗が、共同製作することにより、どれ丈ドルが、多分に得られるかと言う答えと、国際映画進出の夢が実現される事だと思う。日本の映画業者はその製作を合同して国際映画の進出にモットモット関心と努力と実現を計[ママ]るべきだと思う。私はこの道に業者の大いなる協力を求めたいと切望している」

この発言から70年以上経った今の日本の映画業界は、それを実現できているだろうか?

ラジオとのメディアミックス

1952(昭和27)年1月、NHK連続ラジオドラマ「アチャコ青春手帖」(作 長沖一)が花菱アチャコ・浪花千栄子の共演で放送が開始された。庶民の最大の娯楽であるラジオ放送において、この芸達者な二人の演技はたちまちリスナーの心をガッチリ掴んで人気番組となった。間に「アチャコほろにが物語」を挟んで、1954(昭和29)年12月から同じコンビで「お父さんはお人好し」が始まり、1965(昭和40)年3月まで535回を数える超ロングランとなった。また、1952(昭和27)年には、元相方の「エンタツのちょびひげ漫遊記」も制作され1年続いた。

そんな人気をラジオだけで終わらせるのはもったいないので、新東宝と吉本は提携して、ラジオ放送が始まって8ヶ月足らずの1952(昭和27)年8月28日に第1作の「アチャコ青春手帖・東京篇」を封切り、続けて第2作「大阪篇」第3作「まごころ先生の巻」、第4作「めでたく結婚の巻」と立て続けに製作、公開し大人気を博した。
しかし、吉本プロダクションが製作したのは、ここまでで最後となる。
1955(昭和30)年に「お父さんはお人好し」、翌年「お父さんはお人好し・かくし子騒動」が大映で、1958(昭和33)年には「お父さんはお人好し・家に五男七女あり」が東宝で封切られた。
吉本興業は、映画化だけでは飽き足らず、これらの作品を舞台化し大阪や地方で興行した。また、エンタツの番組は、貸本漫画化されるなど、ワンソース・マルチユースを実現していた。
「読んでから見るか、見てから読むか」の角川書店と角川映画、そしてテレビの人気ドラマを劇場映画化するという、所謂メディアミックス戦略のはしりである。

ところが、喜劇映画が順調だったものの、他の映画の興行成績が振るわず、太泉スタジオの収支が悪化、1950(昭和25)年東京映画配給との合併を決断。翌年、東横映画と三社合併で東映株式会社になり、弘高も専務に就任したが、彼の映画への挑戦は失敗に終わった。

しかし、このラジオと映画の人気のおかげで、日本中に大阪のお笑いが浸透し、吉本の演芸への回帰が促進されたと言えるだろう。

興行でリベンジ

映画事業の失敗でいつまでも悩む暇など弘高にはなかった。
父がピアニスト、母が女優でいずれも吉本興業所属だった天才少女江利チエミに、海外展開の夢を託し動き出す。1952(昭和27)年には、キングレコードから「テネシーワルツ」でメジャーデビューし、23万枚の大ヒットとなった。その翌年1953(昭和28)年には渡米し、「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、リリースし、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成した。ハリウッドではアメリカの一流ミュージシャン達とチャリティ音楽会にも出演したり、CBS放送に出演したりと、この渡米は充実したものとなった。
そして、1934(昭和9)年のマーカス・ショー招聘以来となる「呼び屋」としての復活も、この年に果たしている。当時アメリカで人気のザ・デルタ・リズム・ボーイズを招聘したのだ。
当時は、外国人アーティストの入国、公演が厳しく規制されていたため、東京新聞社、産業経済新聞社、中部日本新聞社の主催、後援を取り付け、「混血児厚生年金(当時の呼称)」の募金を目的とし招聘した。収益から寄付を行ったかどうかは、残念ながら手元に資料がないため分からない。
そして、この公演を、江利チエミの凱旋帰国公演としてジョイント・コンサートとして興行した。これが江利チエミの付加価値を上げることになるという、マネジメントのお手本のような興行だ。

そして戦後最大のブームを巻き起こしたプロレス興行にも吉本は大きく絡んでいた。
力士を引退して明治座社長の新田新作の世話になっていた力道山が、アメリカでのプロレス修行から帰国すると、その新田と興行師の永田貞雄のの後援を得て「財団法人日本プロレス協会」を設立し、アメリカからシャープ兄弟を招聘し1954(昭和29)年2月19日から初興行となる全国14連戦に吉本も加わっている。
弘高は、当時来日していた「ホリデー・オン・アイス」のマネージャー、ミスター・ローゼンからプロレスの可能性について有望であるとの情報を得ていたらしい。
その初興行の大成功を受け、同年5月には「日本プロレスリング興業株式会社」を設立し、社長に新田新作、取締役に永田貞雄、林正之助、林弘高らが名を連ねた。
プロレスは、前年から始まったテレビ中継の効果もあり一大ブームを巻き起こした。これはプロレスの知名度を上げただけにとどまらず、キラーコンテンツとして民放テレビ局の視聴者を飛躍的に拡大させ、広告媒体としての価値を大きく高めた。
戦前メジャーリーグ・オールスターを招聘し、後に日本初の大日本東京野球倶楽部(後の読売巨人軍)を設立したときからの知己である正力松太郎と林弘高の間に何らかの話があったのかもしれない。

この間、御曹子の吉本頴右と笠置シヅ子のロマンス、そして彼の死、母吉本せいの死など、それだけで本が一冊書けそうなエピソードはあるが、それは他の機会に譲る。

民放テレビ局が開局し、いよいよ演芸の吉本が帰ってくる日が近づいてきていた。


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