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緑眼

私がステージに立つ時は緑眼になるようにしている。緑眼はすごい。ただただ黒眼から緑眼になるだけで急に世界観が生まれる。アンニュイさが増し、考えが読めないようなミステリアスの表情が生まれる。切長の目に魂が宿る感じがする。自分で書いていても恥ずかしくないくらい事実なのだ。
私が白髪になっただけでは、中井設計は完成しない。緑眼は必須だ。

西洋の文化や価値観の多くで私は育った。緑眼に魅力を感じ、ビートのある音楽を好んで聴き、ギターという楽器、しかもアメリカ製のものをわざわざ選んで使っている。西洋で生まれた建築理論を学び、そのアートシーンで潮流が生まれたデザイン思想を用いる事がほとんどだ。日本の音楽を聴いて育ったが、その日本の音楽はイギリスの音楽を下敷きにしていた。
アートは真似からとはいうものの、あからさまに西洋のルールに則ったものをやるのは私の生涯の仕事ではないと思って生きてきた。
かといって「日本的です」というものを作りたいわけではない。一人の音楽人として新しいルールを持ったものを作りたい。そう思いながらコンセプトを練っている。
前々から私は、絵を描くように音楽を作りたいと周りに漏らしていた。音楽じゃなくて絵を描けばいいとか、作曲の習熟度が未熟なだけなのではと言われてきたが、そういうことではないのだ。イメージを正確に伝わる言葉にするのは難しい。そのイメージを私は最近言葉にしつつある。
結論から言うと私は、「自由帳」に音楽を描いて重ねていきたいのだ。対して私を始め多くのポップス作曲家は「方眼紙」に音楽を、あるときは定規を使って描いている。それは複数の演奏家で合奏するための工夫であるし、情報を正確に共有するためのルールだ。そして音が減衰する楽器や叩く楽器を主に用いている。
私はこれから、撫でたり重ねたりする楽器で筆で描くような音楽を試作してみる。フェルマータで弾いていたらテンポは守ってよと言われ、うるせぇ!と思った、そういうことだ。

でも悔しいかな、緑眼がバッチリキマってしまう、その事に争う事はできないのだ。

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