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【小説】「ミスタ・サンセット・ゲストハウス!」第1話

 「その人間の眼は糸のように細く、そして鼻はない。」
隣でハンドルを握っている伊吹が、何か予言でもするかのように突然声を発したので、俺は眼を見開いたままそちらに視線を移した。
「何なんだ、それは。」
信号が青に変わり、車を発進させながら、これっすか、と伊吹が返事を返す。
「昔々、フン族がヨーロッパに攻め入った時に、アジア人の顔見て向こうの奴らが言った台詞っすよ。」
あまりのタイトスケジュールや、レコード会社その他関係各所からの催促攻撃で、精神のバランスをついに失ったのだろうか。普段の伊吹は突然こんな脈絡のない話を持ち出す男ではない。業界の人間にありがちな、そこそこ軽薄なトークが得意な、俺にとっては有能で手厳しいマネージャーだ。俺との間ではビジネスライクな話がもっぱらである。俺が戸惑っていると、伊吹がバックミラー越しに視線を投げ、いや、だからですね、と言い足そうとしてきた。
「今、バックミラーで桜木さんの顔見てたら、高校ん時の世界史の先生の言葉が急に蘇ったんですよ。その人間の眼は糸のように細く、そして鼻はない、ってね。神は不公平だなあって。僕のこの典型的なモンゴロイドののっぺりした顔と、寝てみたいミュージシャン一位の桜木さんがこうして並んでる構図、同じ日本人とは思えない。」

 車窓の景色から一瞬、海が消え、路地に入ってしばらくするとまた現れた。それで改めて、今までずっと海が視界に入っていたと気づく。那覇空港に着き、宿泊予定だった事務所の保養施設を断って伊吹にとりあえず北へ車を走らせてもらっているあいだ、ずっと考え事をしていた。細かく分ければ百ぐらいありそうな、でもまとめようと思えば一つにまとまってしまうであろう、あれこれを。何にせよ俺は寝てみたいミュージシャン一位になったりしたことはないはずだ。そこまで素顔が認知されているはずもないし、第一、音楽以外で一位になっても嬉しくない。
「おまえは俺の容姿はいつも誉めてくれるが、音楽的な面で誉めてくれたためしがない。」
びっくりしたような表情で、伊吹がミラー越しではなくじかに俺を見てきた。そして、ふへへ、という間の抜けた笑い声をたてた。
「僕に誉められたいんですか?桜木さんが?今や人気急上昇中の、あのブルックリン・ブロッサムズの桜木和馬が?」

 確かにそれは否定しない。前回のツアーではライブハウスではなく、各地のホールを満員にした。メディアからの出演依頼が増えたところに、スナック菓子のCMで使われた曲がなぜか子供に受けて動画再生数が急激に伸びた。想像とはまったく違う知られ方だが、自分達に世間の眼が向いているのは肌で感じる。現在は三枚目のフルアルバム制作の真っ最中だ。しかし歌入れまで終了したのはたった二曲だった。ここへきてデビュー前からの不安が案の定問題となってきたのだ。楽曲における作詞の割合を増やしてほしい。俺は事務所の社長やプロデューサーの揃う部屋へ呼ばれ、そう打診された。作詞はずっとネックだった。元々アマチュアの頃からメロディーで押すタイプで、作詞は英語詞を適当に乗せてごまかしていた。デビューしてからはプロの作詞家にできた楽曲の六、七割を任せ、後を何とか自分でやってきたが、ごまかし英語ではさすがに限界を感じていた。そんなこと、もちろん周りの人間も気づいていただろう。
「残ってくバンドは自前で詞も曲もアレンジもできるヤツらが多いってのはおまえもわかってるだろ。近頃のボーカリストはイコール詩人なんだよ。次のアルバムはかなり重要なポイントになるはずだから、全曲作詞するぐらいの意気込みでやってほしいんだ。おまえ、日本語の詞は書けんか?」
訊かれなくともトライはすでにしていた。作った英語詞を更に日本語にしてみたり、昔の思い出を無理に引っ張り出して詞にしてみたりしたが、どれも再読に耐えない出来だった。たったの一行もまともに書けなかった。昨日になってまた社長に呼び出されたので、今回はもう待てないから諦めると言われるのだろうと覚悟していたら、気分転換に沖縄でもいかないかと言われて唖然とした。この時点でバンドメンバーだけ残して自分だけ沖縄とは、心配し過ぎて社長の頭のネジが飛んでしまったかと思ったが、社長は笑って言ったのだった。
「明日からは取り終えた曲のマスタリングなんかで数日かかるから、その間だけでも環境を変えてみろや。ウチの事務所の保養施設があるから。同じ缶詰でも東京とは違うもんができるかもしれん。伊吹もつけるがあいつは沖縄のプロモーターとかコミュニティFMとか回らせるから一緒に遊んでんじゃないぞ。」
めちゃくちゃな話だなと思ったが、海の見えるホテルには心が動いた。このまま苛立ちだけが積もるよりは、確かに環境を変えた方がいいかもしれない。俺はわずかな荷物とギターを提げて、空港ゲートを潜った。

 「にしても桜木さん、この辺でホテルなかったら、もうやんばるまで抜けちゃいますよ。」
ナビには名護と地名が出ている。海の方を眺めると、春とはいえまだ肌寒いのにウインドサーフィンの群れが帆をはためかせ、車のすぐそばには牛舎があって牛がのっそりと草を食んでいる。かなり牧歌的なエリアに着いたようだった。保養施設は想像とは違って那覇の街中にあった。海辺とは程遠く、窓からの景色もビルと瓦ばかり。社長はここに実際来たことがあるのかと疑うばかりだった。他を当たろうと伊吹に車を出させたが、確かにここら辺りで宿を探した方がいいだろうし、何より昼を過ぎて腹が減ってきた。安い食堂でもないかと脇道に逸れてみると、前方に突然瀟洒な造りの白い建物が現れた。初めはレストランかと思ったが、近づいてみると、看板にWelcome Sunset Guesthouseと書かれている。WelcomeとSunsetの間に手書きでMr.と付け加えられているのが気にはなったが、そこで腹が馬鹿でかい音を立てたので、伊吹と頷き合った。

 漆喰の壁を回り込んでフロントがあると思しき方へ向かいかけてすぐ、俺は伊吹と顔を見合わせた。男の声が聞こえてくる。それも尋常なトーンではない。つがえた矢を次々に繰り出すごとき早口で、かなりヒートアップしている。怒鳴り散らしているという感じでもないのだが、本人が憤慨しているのは間違いなかった。
「何ですかね?」
伊吹が少し心配そうな顔をする。マネージャー稼業だけあって、常に俺がトラブルに巻き込まれることを懸念してくれる。とはいえ、ここで俺が何らかのトラブルに巻き込まれるとも思えなかった。俺は普段仕事中はサングラスを常用している。プライベートで視線を集めるのは最も避けたいところだが、よっぽどコアな、ライブDVDの特典映像を何度もリプレイしているようなファンでもないかぎり、今日のグラサンなしの俺を認識できる人間はいないだろう。

 濃い影になったフロントデスク周辺に眼が慣れると、そこには想定をはるかに超える光景が広がっていた。海へと続く庭のようなところで、ピンクのウサギがタイトな黒スーツの男にひたすら言葉を繰り出している。俺と伊吹は立ち止まり、ぽかんとするしかなかった。
「あのですね、何回も繰り返すみたいになっちゃってますけど、別に喫煙それ自体は否定しないわけですよ。嗜好は人それぞれで肺が真っ黒になってもあえて煙を吸いたいっていう奇特な人もいるわけじゃないですか。リスクマネージメントと人生設計の問題ですよ。でもですね、芝生が灰で汚れるっていうおぞましい光景は見たくないんですよ。芝生はおたくの肺みたいに真っ黒になんかなりたくないわけですよ。」
ウサギはもちろん気ぐるみであり、興奮して忘れているのか顔も覆われた状態のままで喋っている。そのためかなり声がくぐもってせっかくの熱弁が聞き取りにくい。左腕に小振りのバスケットを提げており、何が入っているのかまではわからないが、その全てがシュールなのは言うまでもない。対する黒スーツ男は、まさに事の発端らしい煙草をまだ指に挟んだままなのだが、かなりの茶髪を肩先まで伸ばし、気温がそう高くないとはいえこの解放感溢れるリゾート地には不釣り合いなスーツ姿。足にはぴかぴかの革靴というのがさらに可笑しさを追加している。ふと気づくと、奥にもう一人、女性がいた。大人しそうな雰囲気の子で、この異常事態を不思議な平静さで見守っている。

 ウサギがあまりに次々ぶっ放してくるので、黒スーツはしばらく俺達同様ぽかんとし、やがて自分の行動が非難されているらしいと察して、ようやくむっとした表情になった。言い返そうと息を吸い込むのだが、いかんせんウサギが止まらない。一体どこで息継ぎをしているのだ、ロングトーンにもほどがある。などと思っていたら、建物の中からさらにもう一人、別の女性が飛び出してきた。
「か、影井君!お客さんだよ。落ち着いて!」
その声にウサギはやっと言葉を切り、思い出したかのように頭をがばっと外した。かなり彫りの浅い男の顔が登場する。でかいウサギの頭を被っていたせいで大小が判別しにくい状況だが、本人も小顔でないことは間違いない。
「おまえ、ここの人間かよ、客に向かってありえねえじゃん。喧嘩売ってんのかよ。」
ウサギから出た顔は意味がわからないといった表情をしたのだが、飛び出してきた女性がよく響く声で割って入る。
「すいませーん、喧嘩なんて売ってないですよー、子供に腕相撲負けるぐらいの腕力しかないんでー。ただここ禁煙なんです、ちょっと影井君、いいからお客様の荷物、上にあげて。」
そうですよ、どうして僕がお客さんに喧嘩売ってるって理論になったんですか。そんなことをぶつぶつ言いながらも、男はウサギの格好のまま、二人分のボストンバッグを腕にぶら下げてよたよたと階段を上っていった。黒スーツの男がいらいらを前面に出したままスマホを手に視界から消え、後に残った女性にもう一人が謝っている。
「あの、ほんとにすみません。影井君て、あ、さっきのウサギですけど、誤解を招きやすいというか。さっきのも芝生が焦げるのが辛かっただけでいちゃもんのつもりなんて全然なくて。彼氏さん、怒っちゃいましたよね。」
答えはこちらまで聞こえなかったが、あの黒スーツの連れらしい女は意外にも笑顔で受け答えをしている。成り行きを見守っていた伊吹が、はあ、と間の抜けた息をついた。
「桜木さん、やめときますか、ここ。」
俺が踵を返さず、宿に偽名のチェックインをした理由は、一つには海が眼の前の二階の部屋が空いていると、あの快活な女性スタッフが答えてくれたこと、もう一つは腹が致命的に減っていたことだ。部屋に入ってしまえばあの変てこなウサギスタッフに会うこともないだろう。心配そうな顔で那覇に戻ろうとする伊吹に俺が、
「その人間の眼は糸のように細く、そして鼻はない。」
と呟くと、眼を丸くした。
「伊吹よりもさっきのウサギ男にその称号を与えたい。」
ぶはっと伊吹が吹き出す。それからマネージャー然とした表情に戻って、
「何かあったら、すぐ電話して下さいよ。いい歌詞、期待してまっす。」
と、駐車場の方へ消えていった。

     ☆

 どうして私、少し爽快だったんだろう。ウサギに説教されていた隼人はやとのこと。これまではいつだって、隼人の機嫌が悪くなるのを怖れていたというのに。やっぱり私、気持ちが離れかけているのかな。そう、それを確認するための旅なんだけど。食堂のテーブルでお茶をいただいている。すぐ傍に先程ウサギが提げていたバスケットと同じものが二つあり、覗き込むと色鮮やかに着色した卵が詰まっていた。
「イースター?」
あ、ご存じなんですか?イースターの卵。嬉しそうに声を上げ、さっきまで謝ってくれていた女性が戻ってきた。反対の端っこに座っている宿泊客のためにチャーハンを作っていたのだ。香ばしい香りが満ちている。あの男性は私達のすぐ後ろでチェックインを待っていた。あの騒動を見られたことが恥ずかしい。私は私で、沖縄に男の二人連れって、やっぱり恋人同士なのかな、などと勝手な詮索をしてしまっていたが、どうやら泊るのは一人だけのようだ。
「明後日、ここで近所の子供達とイースターの卵探しをするんです。今それの準備中で。」
イースターはキリスト教の重要イベントだと思うけれど、この辺りは信者が多かったりするんだろうか。沖縄は初めてなのでよく知らない。隼人との二人きりの旅行は、行ったことのない場所にしたかった。隼人との思い出だけが詰まった場所にしたかった。だけど最初で最後の旅になるかもしれない。朝から深夜まで仕事で忙しく、なかなかゆっくり会うことができない隼人が、奇跡的に連休が取れたから旅行でもと言ってきた時には、もう少し前なら嬉しさのあまり気絶してたかもしれないけど。
 
 イースターと言えば確かウサギが卵を背負ってやってくるんだっけ。ウサギも卵も子沢山の象徴だったような。そこまで思い出して、あっと気づいた。
「イースターでウサギって、え、もしかして。」
向かいの椅子に座ってお茶を飲んでいた女性は、手を叩いて喜んだ。
「そうそう、それですよ。今日なんて誰も見てないのにね。それでもウサギが運ぶってとこは厳密に守らないとって気ぐるみ借りてきて、馬鹿でしょう?」
それから、あ、いけない、と少し居住まいを正した。
「まだ自己紹介してませんでした。私、鈴音すずねです。影井君からはすずぴょんって呼ばれています。影井君はここの、」
続きは食堂の引き戸を焦って開けようとするがたぴしゃいう音にかき消されてしまった。ウサギがずかずかと食堂に踏み込んでくる。私の目の前まで来ると、脱ぎにくそうにもごもごと頭を外しにかかった。先程も見た、これぞ人畜無害の代表か、という顔が登場する。
「あのですね、こんなこと言いたくないわけですけどね、ええっと、」
そこで言葉に詰まって、男は鈴音の方をちらっと見た。
「あ、こちらあずささん。」
あ、梓ですか?息を止めて私のことをすごい目力で凝視したかと思うと、片手にマイクを握った風で往年の名曲を歌い出した。語尾をやけに伸ばしたアクの強い歌い方だ。
「ごめんねー、支離滅裂で。」
横から鈴音が謝ってくる。すずぴょんが謝らないでくださいよ!すかさず男が言い返す。
「すずぴょんにこの気持ちがわかってたまるかってもんですよ。僕はいつか梓という女性に出会ったら目の前でこれ熱唱するのが壮大な夢だったんですから、幼少の頃からの。」
壮大な、という台詞は愉快に響いた。過去にこのオヤジギャグには二回出会っていたが、どちらも相手は文字通りおじさんだった。でもさすがにほぼ初対面で熱唱されたケースはない。それにこの人、そんな年齢には見えないんだけど。
「で、何なの影井君。」
あ、それですよ。男はちょっと難しい表情になって手近な椅子に腰を下ろす。顔以外はまだ気ぐるみのままなので室内では暑そうだ。
「言いたくないんですけど、僕は見過ごせないわけですよ。老婆心か母性本能のどっちかだと思うんですけど。2号ならわかってくれると思ってのことなんですよ。」
さっそく歌にちなんで2号になってしまっている。さらに愉快なのだが、男がえらく深刻な顔をしているので笑えない。
「荷物運んでからも卵を隠し続けてたんですよ。意表を突くとこに隠さないと面白くないですからね。そしたら2号の連れが玄関出たとこで電話かけてて。盗み聞きしたくなくても聞こえてきたわけですよ。で、」
もう私には男が何を言いたいのかがわかっていた。そんなに深刻にならなくてもいいのにと、逆に申し訳なくなったぐらいだった。だから最後まで聞かずに自分から結論を言うことにした。
「あの、それ、電話の相手が女の子っぽかったんですよね?」
途端に男は眼を剥いて、一瞬全ての動きを止めた。それから猛然と動き出した。ピンク色のウサギの手足がどたばたと目まぐるしく上下する。
「ええ?2号知ってるんですか?フィアンセじゃないんですか?」
フィアンセという古風な響きに楽しくなるぐらいだった。もうそのことで思い悩むことはない、つもりだ。
「彼氏ですよ。って宣言するのもあれですけど。隼人君、仕事上の付き合いで女友達多いんですよね。」
「2号!それ騙されてますって!」
一秒遅れで鈴音の、影井君言い過ぎ!という悲鳴みたいな声が響いた。私の気持ちを詳しく知らないウサギ男はもちろん黙ったりしない。
「だって、ひどいもん、電話すごかったんですから。マミちゃんですよ、そのあとミチちゃんですよ。二文字しりとりかと思いましたよ。マミ、ミチ、次来るならチャゲしかないじゃないですか。それでもってあの野郎、この宿の悪口言いまくりですよ。マミ&ミチに。ぼったくりだって。ぼったくりって安い物を高く売ることなわけですよ。こんなリーズナブルな宿でぼったくりもへったくれもないんですよ。そもそも車停めて入ってきた時からあの野郎、2号にぼったくりの宿予約しやがってって喚いてたでしょ?あの時もすぐ傍で卵隠してたから聞こえてたんですよ、それで、」
「それでかー!」
激する男より更に大きな声を鈴音が上げる。
「それで影井君、初めからヒートアップしてたんだ。そん時から梓ちゃんに老婆心だか母性本能だかを働かせてたんだー。」
「違います違います違いますって。」
男は手をぶんぶん振って否定する。
「僕は芝生がまっくろくろすけばりに真っ黒になっていくのを黙認できなかっただけですったら。」
あれを聞かれていたのかと思うと、この二人に申し訳ない気がした。隼人は自分の気に入らないことがあるとキレがちだ。元々短気なところはあるが、最近特にひどくなった。この旅行も珍しく隼人から提案してきたにも関わらず、飛行機の座席、レンタカーの車種、予約したこのゲストハウスが想像よりずっと僻地にあったことと、文句の言いどおしだった。影井というこの男に聞かれたのは、白亜の邸宅じみた外観からすると、駐車場から見渡せた建物の内部が期待外れだったと私を責めていた時のものだった。私はいつだってとりなし役に徹してきたっけ。根気強く、隼人の機嫌が直るまで。その代わり機嫌のいい時の隼人はうっとりするほど優しかった。優しい隼人がほんとの隼人。機嫌が悪いのは仕事のことでいらいらしてるだけ。そう思おうとしてきた。
 ふと振り返ると、もう一人の客はすでに食堂を出ていた。神経質そうな人だったから、うるさいと思われたかもしれない。
 
     ☆

 うるさくて落ち着いて昼飯も食えなかった。このホテルにしたのは部屋から海を眺めながら詞書きに専念するためだから、飯以外は引き籠るに限る。確かに二階の部屋は上々だった。二面が大きな掃き出し窓で、一方からは砂浜と海が、もう一方からは黒々した森が見渡せる。室内もそこそこ広い。
 あれから小一時間ぐらいだろうか、窓際の書き物机に頬杖をついて、海を眺めてはちょろちょろとノートに文字を書きつけていた。とはいえそのほとんどは上から乱雑に線で消されている。まったくもってはかどらない。土台自分には詞の才能などないのだ。作曲と歌いっぷりはよしとして、ギターがまあどうにか。バンドメンバーは俺のワンマンぶりには文句も言わず、楽器のスペシャリストの誇りを持ってついてきてくれている。事務所のスタッフにも熱心なファンにも恵まれている。しかしこの得体の知れない、作詞という作業は一体何なのだ。曲を作って歌うことと作詞とは、いっそ相容れないものに俺には思える。洋楽一辺倒だったから、元々歌詞はあまり重要な要素ではなかった。勢いとかシャウトとか、言葉ではない塊で伝わってくる何かが大事なのだ。今まで英語詞で作ってきた歌は、その意味では何とか一定のレベルをクリアしてきたと信じている。一言一言に意味が見出せなくても、塊になることで激烈な何かが伝わったはずだった。日本語で詞を書く絶対的な必要性が見いだせない。サッシを細く開けると暖かな風が流れ込んできた。潮の香りがささくれた気持ちを少し落ち着かせてくれる。机に突っ伏して眠ってしまいそうだ。

 そのとき、すぐ真下でギターをつま弾く音が聞こえてきた。思わず跳ね起きてベッドの上に放り出してあるアコースティックギターを振り返る。もちろんそれはそのままの姿でそこにあった。ギターの音は続いている。そして単調なコードの前奏のあとに歌が始まった。
「あの日おまえがぁ 追いかけたぁ 夢を追おうと思った時にゃあ もうおまえは出てった後だったぁ 後の祭りの祭囃子ぃ」
ひどいものだ。歌詞も歌声もひどすぎて、しばらく思考が停止するほどだった。ギターの基本コードがぎりぎり押さえられているのがせめてもの救いだが、それ以外に救いは一切なかった。サッシをがらがらと開けて身を乗り出してみた。庭のベンチに腰を下ろし、膝にギターを乗せて熱唱していたのは、やはり先程のウサギ男だった。さすがに今はウサギなしだが、今度はTシャツに短パンという極端な薄着になっている。
「いつだってそうさぁ 幸せ思い描けばぁ チラシみたいに飛んでいくぅぅ 俺は夜空見上げてぇ 一番星探したぁ また一から始めようかぁ 始めようかぁ」
「おい!」
男のがなり声に負けないように怒鳴ると、男はステージ気取りで歌うのをやめてにこにことこちらを見上げた。相手が迷惑と思っていることなど考えも及ばぬらしい。
「いやあお客さんがギター持ってるの見て久々に僕もやっちゃおかと。三線はちょいちょい飲み会の余興でやるんですけど、フォークはやっぱアコギじゃないとね。」
フォ、フォークのつもりだったのか。どう聞いても演歌だろう。
「お客さんも一緒にどうですか?海を前に弾き語り。これぞノーストレス、ノーライフ。あ、逆か。」
この時間が途轍もなく徒労に思えた。これでは引き籠りもままならない。飯とオーシャンビューに眼が眩んだ俺がミスったか。
「いや、いい、いい。悪いがステージはよそでやってくれないか。それにしてもそれは一体誰の曲だ?」
まるで俺が興味を持って尋ねたと勘違いしたかのように、男は上気した顔をしている。
「これですかっ!いやーちょっと自慢になっちゃいますけどねー、ワタクシ作。泣けるでしょーっ!二番がまたいいんですよ。コードはFマイナーね。」
男が姿勢を正して今まさに二番に取り掛かろうとしたので、俺は息を吸い込み、
「いいからあっちでやってくれ!」
と叫ぶなりサッシをぴしゃりと閉めた。閉め切ったからか、男が窓の下から立ち去ったからか、それからはギターも歌声も聞こえなくなった。とはいえイライラはそう易々と消えない。歌詞はやはりたったの一行も浮かばない。言葉の尻尾を捕まえたと思ったら先程の演歌の一節で、なおのこと腹が立った。まったくふざけやがって。歌詞の進まない苛立ちをすべてあいつのせいにしてベッドにばたりと寝転がった。すごい勢いで眠気が襲ってきた。昼夜に渡って続いていたレコーディングの疲れと歌詞作りのプレッシャーだろうか、重くて質の悪い眠気だった。

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