#41 暇と退屈のプライズゲーム  ~なぜ人はUFOキャッチャー/トレカ/1番くじが好きなのか~

こちらのメルマガから転載です。

エンタメ領域におけるトレンド

自分もエンタメ分野については興味分野としてみているし、投資もしていく中でいくつかトレンドがあり、それが交差してきているように感じる。例えば下記のようなトレンドなどである。投資をするにあたってもこのあたりの現象が起きる背景を考えていた。

・コレクティブ商品への熱量(スニーカー/トレカ/NFT etc..)
・オンライントレカガチャ/オンラインUFOキャッチャーの流行
・アニメ/IPの流行・躍進におけるグッズの重要性
・オフライン回帰>イマーシブ体験 > これは
こちらの記事で書いた

感じていたトレンド

GENDAの躍進

GENDAの決算説明資料より

そのようなことを考えていたときに、昨年GENDAという会社が上場を果たした。ご存知の方も多いとおもうので詳細の説明を省くが、GiGOというゲームセンター事業を中心にしながらM&A中心の戦略で成長しているエンタメ企業である。最近だとGAGAなどを買収しており注目の新規上場企業の1つではあるのは間違いない。

その資料を読むときにプライズゲームという言葉とともに、ここ数年のプライズゲームの成長とその成長に対しての仮説の資料を拝見したことが刺激となり、点と点が繋がる予感がして今回の記事を書くことに至った。


現代社会における”暇と退屈”は課題

スタートアップなどでよく使われる用語として、"ペインポイント"という言葉がある。読んで字の如く、顧客の痛みであり課題だ。この ペインポイントが深ければ深い程よいとよく言われている。
ではエンターテインメントにおいてはペインポイントはあるのだろうか?実務上、自分が投資委員会のために上げるメモとしてはその業界構造などに関するペインポイントやマーケットの変化などについては取り上げるが、Consumerがなんの課題/ペインがあるかというと、記載は弱くなる。

しかし、実際課題はあるのだ。それが"暇と退屈”である。

そのことを考えるのには名著がある、ご存知の方も多いとはおもうが"暇と退屈の倫理学"という國分功一郎先生が書いた名著だ。もし読んでない方がいたらぜひ読むことをオススメするし、以下引用を多く利用する。

”豊かな社会(The Affluent Society)”におけるペインポイント

アメリカの経済学者のガルブレイスが定義した"豊かな国”になっていくと人々は逆に不幸になっていくという恐ろしいが正しいかもしれない指摘をしている。豊かになった結果の余暇・退屈こそがペインポイントになりえるからだ。そこに対して例えばレジャー産業であり、エンタメ産業などは立ち上がっていった。
彼の指摘としては、需要が最初にあり生産者がモノをつくるという構造は、資本主義が普及した高度消費社会・豊かな社会においては間違っており、供給が需要に先行し、供給が需要を操作していると言う。
(そしてそれはカントの啓蒙に関する批判などはあるが、ぜひ詳しくは、暇と退屈の倫理学をお読みください、面白いです)

先進国の人たちは少なくとも資本主義の全面展開によって、裕福にはなった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。
そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている

暇と退屈の倫理学

現実はこれは理解しうる考え方なのではないだろうか。特にInstagramなどのSNSの発達はこのような余暇の搾取(搾取というと言葉が悪すぎるが・・)を加速させているように思える。休みはなにかしなければならないと思って動いてしまうこともあるのではないか。特にそういった投稿などを見ると、自分はなにもしていない、、と自己嫌悪に陥ってしまうのも現代っぽいのではないかなと。(まあ自分もよく思うが・・)

そういった余暇・暇に対しての向き合い方について、暇と退屈の倫理学ではいくつかの哲学者や思想家を引き出しながら、暇と退屈に対しての問いを深めていく。そのどれもが面白いが、その中で今回注目したいのは、パスカルの”気晴らし”についての議論だ。

欲望の原因と欲望の対象

パスカルは、人間の不幸というのは部屋でじっとしていられないがために起こる、つまり暇と退屈に耐えられないことによって起こるという論に立脚して、議論を展開している。
例であげているのは例えば、退屈に耐えられないために、ウサギ狩りにいくこと例にあげている。そんなウサギ狩りに行く人にパスカルはこのように問うとどうすると考える。ウサギ狩りに行く人に、余っているウサギを手渡すと、どうなるか?おそらく嫌な顔をするだろうと。

つまりこの欲望の対象はウサギではあるが、欲望の原因はウサギではなく、退屈であり気晴らしであることがわかる。人間はその欲望の原因と欲望の対象を取り違えることをパスカルは指摘している。
そしてそのための気晴らしには条件があり、熱中できるものである必要があある。熱中できるほど自分を騙せるものが必要なのであることを指摘する。

欲望の対象と欲望の原因がある。欲望の対象はウサギだけど、欲望の原因は気晴らしが欲しいということ。(中略)
パスカルは、気晴らしには熱中することが必要。熱中し、自分の目指しているものを手に入りさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、自分を騙す必要がある

暇と退屈の倫理学

非常に理解できるがだからといってどうしたらいいのか?といいたくなるような論説ではあるものの、痛いことを言う。ただここで本当に欲しいものやりたいことって何?みたいな問いの方向性を深めていくことは今回はやらない。(パスカルの答えは神への信仰である。)

むしろこれこそが人間らしさであり、その中でどのように社会が回っているのかについて考えてみたいというのが今回の趣旨である。そしてこの気晴らしという概念の中で、自分のなかではプライズゲームという存在が繋がっているのではないかと考えるようになった。


"気晴らし"としてのプライズゲーム×コレクティブの相性の良さ

GENDAの決算説明資料より

このように暇と退屈の倫理学で発見した、暇と退屈というペインポイントに対して、気晴らしというものが一つの解決方法であることは述べてきた。(このように書くと、小学生でもわかるような当たり前のことだが)

そしてこの現代における暇と退屈の”気晴らし”には、プライズゲーム×コレクティブあたりとの相性が良すぎるのではないかということを個人的にはこのパスカルの論と、GENDAの上記の資料を見ながら考えたことだ。

現代の暇をとりつくろう手段

昨今の暇と退屈において、一番真っ先にその解決方法として上げられるのは"動画""SNS""ゲーム"であろう。これは例えば電車の中で周りを見渡せば簡単だ、仕事をしている人以外で何をしているか?もちろん本を読んでいる人もいるだろうが、大半はこの上記3つのどれかを行っているのではないだろうか。

そしてその3つどれにも当てはまるものがIPビジネスを中心としたコンテンツ産業だ。Netflix・YouTubeでアニメを見て、そのアニメの感想をSNSでシェアをしたりして、そのゲームもやっている。もしくはそれがアイドルでもよいだろう。そういったIPとの距離感が、スマフォの登場・巨大PFの登場によってより近くなってきたことは確かである。

プライズゲーム・コレクティブへの熱狂

そういったときに、そのIP・コンテンツに対する興味関心の惹きとしては、上記のようなメディアが十分に効力を果たすであろう。ただそこにこの"プライズゲーム”や"コレクティブ”性が交えたときには、気晴らしの熱狂・没入が生まれるのではないかと思っている。その例は例えば、UFOキャッチャー・ガチャガチャ・一番くじ・オリジナルパック etc…であろう。

例えばプライズゲームにおけるUFOキャッチャーを例にとってみると、GENDAの資料にある通りだが、知らないキャクターばかりの景品があっても、まあだれもやらないであろう。
しかし知っているキャラクターがいたら興味は惹く。ここでパスカルのいう気晴らしの理論がでてくる。欲望の対象と原因を取り間違えやすくなる。

意地の悪いことをいうが、例えばUFOキャッチャーでとれる景品が500円で買えますと言われたら買うだろうか?とれるかとれないかでありその時間を含めて、楽しく感じるからUFOキャッチャーをやるわけで、本当にその景品が心の底から欲しいのかは正直あるのではないか。(もちろん、本当に欲しくてやっている人も必ずいると思います)
前述でパスカルがウサギ狩りの話をしたが、同じことが当てはまる論ではあると思っている。

やはりここには、欲望の原因としては気晴らしであり、暇と退屈なのであると思う。しかしそれを前段階で、そのIP・コンテンツへの興味・関心が高められてしまっているから、よりそのプライズゲームで景品をとることが欲望の原因だと勘違いしてしまう。

(自分も何回ゲームセンターにいき、何回そんなに食べたくもないポッキーとチョコボールを何度もとり、そして好きだけど別にぬいぐるみまではいらないちいかわのグッズに対して何千円を課金したかわからない・・)

更に資本主義の態度が加速させる(気晴らし+経済的利益)

そしてそこに資本主義的な態度が押し寄せてきているのが今だと思う。資本主義の態度というのは、簡単にいうともっとお金を稼ぎたい・貨幣的価値によって物事を考える態度である、他の言葉で上手く表現しているなとおもっったのが、下記で説明されていた日常的ネオリベラリズムという言葉であろう。

即効的な効果が期待されること、短期的な利益の見込めないすべてのいとなみが、減価されること。いわゆる日常的ネオリベラリズム。

賢人と奴隷とバカ

つまり何がいいたいかというと、フリマアプリや中古市場のような流動性の提供が行われることによって、プライズゲームやコレクティブ性があるものに、ある種の流動性がより担保されやすくなったのである。それはつまり安く手に入れ、高く売り利益を求めることができるようになった。

これはプライズゲームで手に入れた商品をネットで売るのもそうだし、例えばトレカをパックで買ってあたったレアカードを売るという行為もそうであろう。"気晴らし"に経済的な利益がついてくる可能性があるとなってくると、その引力は加速するであろう。

一番くじ、ガチャガチャ、トレカ、NFT、BCGが流行る理由

結果のオンライントレカガチャ(是非はある)や、一番くじやガチャガチャや、よくあるランダム販売のような類はより熱狂を生みやすいのが何故かは理解するのに容易ではあろう。もはやトレカは金券や草コインのようになっているし、もしかするとすべてのモノは流動化していくことによりそういった日常的ネオリベラリズムの性格を帯びるようになるのかもしれない。

NFTなどの流行はこのコロナにおいての余暇時間の気晴らし×経済的利益ということがマッチしたときにおきた一つの現象ではあったのではないかと思う。(もちろん今後のNFTは一般的によりハイプしすぎない形で普及していくことに自分はかけてはいるが)
それ以外でもSTEPNのようなBCGが流行る理由も、ポイ活のようなことがはやるのも大きく考えると同じようなトレンドの中で起きているように思える。

気晴らしではなく”新しいタイプの労働”なのかもしれない

ここまで書きながら思ったが、その気晴らしのような行動に経済的なインセンティブがついてしまうとそれはもう労働なのかもしれない。しかもお金が必ずもらえるわけではない労働。それをギャンブルというのかもしれないが、このあたりの人間活動については何か名前があってもいいのかもしれない。
Play-to-EarnというのはWeb3ゲームのときに流行った言葉であるが、上記のポイ活にも近いものがあるのかもしれない。単純な暇と退屈における、気晴らしだけではなく、新しいタイプの労働を生み出しているのかもしれない。
マルクスにいわせれば、すべてが包摂されていっていることの証明なのかもしれない。

暇と退屈のXXXX

とはいえ、今後もおそらくこのトレンドはしばらくは変わることはないもので、暇と退屈のXXXXを発明した企業においてはよりユーザーからの注目であり、またそれが最終的には利益になるようなものができる可能性はまだ存在するであろう。投資領域としても注目はしている。

一方ここからは個人的な願いではあるが、それがインスタントに消費されるようなコンテンツであったり、他人を傷つけたりするような”気晴らし”に、ならないことを願っている。時代は少しそういった方向性に向かいつつあるような気がしているので、非常に危惧している。

その”気晴らし”が、暇と退屈の倫理学でいうところの、バラで飾られるような、生活にちょっとした刺激や彩りをあたえるようなものであることが増えることを願っている。

モリス:革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのとき大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ (中略)

人はパンのみに生きているのではあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラもももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。

暇と退屈の倫理学

引用
-Books
暇と退屈の倫理学
賢人と奴隷とバカ

-URL
GENDA IR https://genda.jp/ir/

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