ベネチアのサン・マルコ広場

ベネチアには一人で行った。ロンドンのサマー・スクール履修後の気ままな旅だった。

車両の立ち入りが禁止されているベネチアの町は静かだ。船が車に代わるベネチアの主な交通手段だ。正面が海に向かっているサン・マルコ広場は、船から見るのが最も美しい。ルノアールがサン・マルコ広場を描いている。私の好きな絵だ。だが、実際のサン・マルコ広場は、やはり絵よりも美しい。

私は夜行列車でベネチアからロンドンに戻るつもりだった。当日、列車の出発時間よりもずっと早くサンタ・ルチア駅に着いた私は、どうしてももう一度、夕日の中のサン・マルコ広場が見たくなった。駅前の船着き場から船に飛び乗った。サン・マルコ広場は変わらず美しかった。

しかし、大急ぎで戻った駅に、もう夜行列車はなかった。出発したのだ。仕方がなく、重い荷物を抱えて私は夜の町を歩き出した。その夜、泊まるホテルを探さなければならない。

それ以来、私にとってサン・マルコ広場は取り返しのつかない出来事の象徴になっている。どんなに後悔しても出発してしまった列車は戻ってこない。美しい夕日の後の夜の闇の中に歩き出すしかない。暗闇の向こうにあるはずの灯りを目指して。(1997年)

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