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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第1回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、大変に【納得感】の深いお話をお見かけしました。

 【意訳】するなら、『口先で【説教】じみた【教訓】を伝えられても【反発】したくなるだけ。なのに、【上質な物語】を通して同じ【教訓】を伝えられると、今度は大いに【説得力】を感じてしまう。これが【ストーリィ・テリング】の力というものか…』というもの。

 なるほど我が身を振り返っても、『【教訓】や【メッセージ】などの【説得力】は、【伝え方】によって大きく変わる』というのが【実感】できます。
 ここでは【説得力】と【表現】しましたが、【創作】において『【伝え方】を【観客】に受け入れられやすく【工夫】すること』の【効能】たるや、絶大なものがある――と私は【認識】しております。それこそ私個人としては、『【表現】は、【観客】を乗せたら【勝ち】、醒めさせたら【罪】』と考えているところもありますので。

 では、このお話で伝えられる『“【説教】が誘う【反発】”と“【上質な物語】が誘う【共感】”、これらの間にある違い』は果たして何か――というところに思いは及びます。
 私としても、これを【考察】していけば【説得力】というものを一端なりと【理解】することに繋がる――とも考えますところです。

 そこで今回は、【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせてみましょう。

 この点、個人的にはまず思い浮かべる諺があります。

『【百聞】は【一見】にしかず』

 【百聞】、つまり【言葉】(【直言】)をいくら並べたところで、【説得力】の上では【一見】、つまり“【具体的】な【体験】”には及ばない――と、私は【解釈】しております。

 その【背景】へと【考察】を巡らせるに、【言葉】というものの【機能】に眼を向けないわけにはいきません。

 そも【言葉】とは、【情報量】を極めて限定された【媒体】です。その性質上、基本として【優先度】の低い【情報】を納める余地はありません。ゆえに【情報】を削ぎに削ぎ、【優先度】の最も高い【情報】だけを込める、という用い方に適した【媒体】とも言えましょう。

 ここから私なりに言えることは、つまり『【言葉】とは、【本質的意味】のみを伝えるのに向いた【媒体】』だということです。

 もちろん【表現】とは、基本的に単語一つで【完結】するものではありません。【表現】とは『【既存】のものを組み合わせて表すもの』です。たとえ眼に見えるものが単語一つであろうとも、その正体は周辺の【文脈】まで含めて【意味】を形成するものです。
 よって組み合わせ次第では、【表現】の内容は【崇高】にも【下劣】にも、【高等】にも【凡百】にもなり得ます。

 事実、【言葉】はその【情報量】のコンパクトさから、【手軽】に扱うこともできてしまいます。
 【手軽】であることそのものに【善悪】はありませんが、『【手軽】であるがゆえに失われがちなものもある』のは間違いないところです。

 例えば『口(【言葉】)だけ達者』という【姿勢】。

 例えば「【自分】は【優秀】」というような【言葉】自体は、実は誰でも言えてしまいます。【言葉】自体ではその【根拠】すらも削ぎ落とされているため、【嘘】すらも容易に【成立】してしまうわけですね。

 その上で。
 この場合、個人的な【経験】に照らしてみれば、『傍から【優秀】と【認識】できる【人物】』であるほど、【自分】のことを『【優秀】』などと【表現】することはないものです。実際に多く見られるのは、『【具体的】な【得意】や【不得意】』、あるいは『【具体的】な【行動】』を語ること。

 逆に『「【自分】は【優秀】」と【直言】する【人物】ほど、【自称】するほど【優秀】ではなく、そもそも【優秀】という【概念】を【具体的】に【理解】していない、しようともしない場合が多く見られる』という【傾向】を、個人的には感じるところです。

 この【経験】を踏まえて【判断】するに、『「【自分】は【優秀】」とうそぶく【人物】は、【嘘つき】である【可能性】を相応に帯びている』ということになります。

 つまりは、こういった『“【事実】と【認識】する【根拠】”が、【言葉】そのものからは“【省略】されて”いる』わけです。言い換えると『“【事実】と【認識】する【根拠】”が【言葉】本体の外に“払い出されて”しまっている』ことになりますね。

 よって言えるのは、『【説得力】、つまり“【事実】と【認識】する【根拠】”は【言葉】単体には宿っていない』ということです。

 ◇

 さて、第1回としての今回は一旦ここまで。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】あって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもある――という考え方ですね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 まずはこの観点に立った上で、次回は【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処について【考察】を巡らせてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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