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創作で言語化できる部分、できない部分

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、創作の考え方や方法論について、可能な限り言語化を試みようとよく考察を巡らせておりますが。
 この背景として【認識】しておりますのは、こういうことです。

1.創作には『言語化できる部分(【技量】)』と、『言語化できない部分(【発想】)』がある。
2.ただし『言語化を自ら試み続けること』自体には巨大な意義がある。

 まず1.について。
 創作を我流で例えるなら、『【技量】を骨格に、【発想】で知肉を通わせて、【作品】という生命を形成していく行為』です。
 例えば『作者のやりたいこと、という【発想】』だけで【作品】を形成したとしましょう。これは、なぞらえるなら軟体動物のようなものです。骨格がなくとも『【作品】という生命』としては成立します。ただし『【論理】という骨格』が通っていると、【観客】からの理解は得やすいと申せましょう。

 逆に、『【技量】という骨格』だけで『【作品】という生命』を形成しようとした場合は、さてどうでしょうか。この場合は良くても『骨格標本』ができるに過ぎず、そこに生命が宿ることはありません。

 そもそもの話、『【技量】という骨格』に相当する【論理】(例えば創作論)をいくら極めたところで、それだけで【作品】が自動的に生成されることはありません。なぜなら【技量】とは『過去の成功例に見出された共通項』を元として、それを『体系的にまとめて再現性を持たせたもの』に過ぎないからです。
 その本質を例えるなら『公約数』の域を出ることはなく、言うなれば骨格の、さらに姿勢の良さを測る【定規】がいいところ――と私は捉えています。『公約数』は元となるサンプルとなる【作品】群から削られることこそあれ、足されることはないからです。さらには『新たな【発想】』に伴って、骨が新たに付け加えられることさえあります。つまり『【技量】という骨格』は、創作の上では絶対的存在ではないわけです。
 そう捉えるからこそ、創作の上で『言語化できる部分(【技量】)』と『言語化できない部分(【発想】)』の存在を、私は認めているわけです。

 これを発展させるなら、『【作品】という生命』の血肉に相当する『言語化できない部分(【発想】)』は、言語化できないがゆえに【作者】自身の中からしか生じませんし、同時に【観客】から聞き出す(伝えてもらう)こともできません。

 これを【観客】の視点から語るなら、『【発想】という血肉』は『【作者】からの【提案】』と表現するのが適切でありましょうか。
 仮に【提案】が込められていない存在が【作品】を名乗ったとしましょう。これは【観客】の視点からしてみれば、『盗作』か『劣化コピィ』でしかありません。
 要するに『【作者】からの【提案】が込められていない、【作品】未満のもの』は、もはや良くなりようがないのです。

 次に2.について。
 では『言語化できない部分(【発想】)』を除いた『言語化できる部分(【技量】)』に存在意義はないのか――という疑問には、『【技量】の存在意義は巨大』とお答えする私です。

 ここで【技量】は『料理における調理法』にも相当します。
 ここで、以前も使いました例えを。
 例えば『言語化できない部分(【発想】)』を『マグロのトロ』になぞらえるとしましょう。【観客】は、『マグロのトロを美味しく味わいたい客』に相当します。ここで【技量】を使わないとしたら、さてどうでしょう。客の眼の前には、新鮮なマグロが一本、『生のまま』転がされることになります。

「で、ここからどうやってトロを取り出せと?」

 客の困惑がご想像いただけましたでしょうか。つまり【観客】自身が【技量】を持ち合わせていない限り、『トロに相当する【発想】』がいくら上質であろうとも、【観客】が味わうことは不可能なわけです。

 つまり【発想】と【技量】、この両者は『上質な【作品】を【観客】へ届ける上で欠かせない両輪』ということになります。

 もう一つ。
 先述の通り、新たな【発想】には新たな【技量】が必要です。ですが、そのヒントはそれまでの段階で相応に成功したやり方、より具体的には『【観客】としての自分』に対して『より効果的に訴えてきたやり方』にあるはずなのです。
 『【観客】としての自分』の感じ方を最大のサンプルとすれば、その具体的効果は自分の中へ取り込める可能性は最大となるはず。その具体的効果を考察するに、言語化を試みればもっとも明確な形で形跡を残すことができる道理です。

 さらには副次効果として、『頭は鍛えた分だけ回る』。考察を巡らせれば巡らせるほど、頭も観察眼も鍛えられることになるわけです。そうなれば『言語化できる部分(【技量】)』の手持ちも充実する上に、新たな【技量】を開拓する能力にも繋がっていくと申すもの。労をかけたらかけただけ報われる構図がここにあるわけですね。

 そんなわけで、今日も今日とて考察を巡らせる私なのでありました。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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