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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第5回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、先日より、【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもありますね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 その上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と【考察】しますと、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと至ります。

 【手軽】ゆえに、『口(【言葉】)だけ【達者】』、『【言葉】だけなら何とでも言える』、という【姿勢】が成立するというわけですが。
 ならば同じ【言葉】であっても、【内容】を込める【難度】が高めであれば。
 これなら“【手軽】に騙そうという【邪な意図】”は弾かれやすくなる道理。そのために【具体】の集合体である【体験】は、【嘘】が通じにくい分だけ【信頼】即ち【説得力】に繋がりやすいはず――という、これは【推測】ということになりますね。

 前回はこの“【信頼】としての【説得力】”について、少し掘り下げて【考察】してみました。

 【持論】としては、【リアリティ】は、そもそも『【観客】の【認識】(【信じたい】か否か)に基づいて生まれるもの』です。
 つまり“【説得力】としての【リアリティ】”は、『【根源的】に、【作者】が【制御】できるものではない』ことになります。なぜなら、『【信じたい】か否かを決めるのは【観客】の心であって、外から操作できるものではないから』です。

 ここで対比として取り上げたのが、【説得力】と関連してよく持ち出される、いわゆる【リアリティ・ライン】という【概念】です。いわゆる【アンチ】の、「そんなのあり得ないだろ」という科白を変換して「【リアリティ・ライン】を割っている」と【認識】するものですね。

 私はこの【リアリティ・ライン】を『【リアリティ】を感じるか否か、という“【嘘】の【程度】”を表す【境界線】』と【認識】しておりますが。
 実はこの【リアリティ・ライン】なるもの、『【信頼関係】の【構築】なくして、最初から【説得力】(≒【リアリティ】)が【存在】する【前提】』に立っているのですね。『【リアリティ】を感じる【水準】が、予め【存在】する』というわけです。

 ですが私の捉えるところ、『【説得力】は“【観客】が【作者】や【作品】に対して自ら抱く【信頼】”によって【成立】するもの』です。
 なので、『【信頼関係】の【構築】なくして、最初から【説得力】(≒【リアリティ】)が【存在】する【前提】』に立つ【リアリティ・ライン】の【概念】については、少なくともその【実用性】については、私は懐疑的です。

 同時に、“【説得力】の源”として機能する【存在】を、“【観客】からの【信頼】”と捉えてみれば、【リアリティ】に関しても見えてくるものがあります。
 もちろん【作品】において【現実(リアル)】と共通する部分を通じ合わせるのは【大前提】として、その上で【観客】が“【リアリティ】とされる【説得力】”を感じるのは、【作品】の中に【徹底】して込められた“【作者】の【姿勢】”によるものではないか――という、これは【仮説】です。

 であれば【作者】として、【観客】への向き合い方についても【整理】できそうですね。

 なので今回は、“【作者】としての、【観客】への向き合い方”も含めた形で【考察】を展開してみましょう。

 ◇

 ただし、【アンチ】の【言動】から学ぶこともあります。

 何かと申せば、『【観客】が【嘘】と【信じた】ら、そこに【説得力】は宿らない』ということです。
 実際【アンチ】の中には、【現実的背景】を持つ【内容】であっても「そんなの【嘘】だ」と言い張る向きが一定数【存在】します。先述した「(当の【観客】にとっては)【リアリティ・ライン】を割っている」という受け止め方ですね。

 これ、『観る眼が優れているか否かの【問題】』“ではありません”。『【観客】の【心理】は、あくまで【観客】自身のもの』だからです。

 【人格】には【思考の自由】があり、ゆえに“【他人】から【思考】を覗かれたり、操られたりしない【自由】”があります。いかに【少数派】であれ、【思考の自由】を【侵略】されていい【理由】はないのです。

 裏を返せば、『【自分】の【思考】通りに【他人】を操ろうとする【アンチ】』であれば、もちろんそれは完全に【言語道断】ですけれども。
 よって『個人的な【意志表明】』ならばともかく、【罵倒】や【同調の強制】などに及んだなら、それは『【人格】として【尊重】“されない”【理由】を自ら積み上げていく【愚か者】の【所業】』ということになります。もはや耳を傾けるにも値しません。

 ただし肝に銘じるべきは、『【立場】を問わず、【観客】が【嘘】と【信じた】ら、そこに【説得力】は宿らない』ということです。
 そして【観客】の【認識】つまり【思考】は、あくまで【観客】本人だけのものです。

 この点、【作者】はどう向き合うのが【得策】か――と考えるに。

 私がお勧めするのは、『こと【思考の自由】の範囲内である限り、【作者】としては【アンチ】を【放置】すること』です。

 もちろん当の【観客】、例えば【アンチ】が『【作者】や他の【観客】を含めて、【他人】の【思考の自由】を【侵略】するのは【論外】』ではあります。ですが、そうでない場合は、【作者】や【作品】としての【都合】に関係なく、【アンチ】は【放置】しておくことをお勧めしておきます。

 その【理由】は単純、『【作者】の【弁明】は、【言い訳】と見分けがつかないため』です。

 “【作者】の【言い訳】”は、見方を変えれば『【観客】が抱いた【心理】を、【作者】が【否定】すること』です。たとえそれが【作品】に対して【否定的】な【心理】であれ、当の【観客】の【表現】ではなく“【心理】そのものを【否定】している”以上、その【姿勢】は『【相手】の【思考の自由】を【侵略】している』ことに変わりはないのです。

 ここで『【作者】が【自分】の【人格】やその【作品】を【尊重】されたい』のなら、まず自ら【相手】の【人格】を【尊重】しないことには始まりません。『手は手でなければ洗えない。求めるならばまず与えよ』というわけですね。

 つまりここで言う【放置】とは、『【作者】が、たとえ【自分】に【都合が悪く】とも、【観客】の【心理】と【人格】をまず【尊重】すること』なのです。

 『【観客】の【心理】を【尊重】する』からには、『【観客】の【誤認】や【誤解】も基本的に【尊重】する』ことになります。
 ゆえに【放置】、【作者】は直接に質問されるなどの【機会】に恵まれない限り、口を出すのは【思考の自由】を【侵略】することになるわけです。
 つまりは、ひたすら【観客】自身が【事実関係】や【周囲の反応】から、自ら気付くのを待つわけですね。

 もちろん、「“【誤認】や【誤解】を【根拠】にした【批判】”を受けたらどうするんだ!」という【作者】さんもおいででしょう。

 ですが【表現】に抜かりがなければ、“【誤認】や【誤解】を【根拠】とした【批判】”というものは、そのまま“【批判者】の【読解力不足】”を【意味】します。つまり【ダメージ】は【批判者】へブーメランとなって返っていくだけの話。
 むしろこれを【放置】することができれば、『【作者】が【観客】の【心理】や【人格】を【尊重】している【証拠】』が一つ【積み上がる】ことになるわけです。

 実はこれ、“【信頼】の【根拠】”の、少なくともその一つというわけですね。

 なので【作者】としては、『“【理解】する【姿勢】でいてくれる【相手】”にこそ【理解】されるようにすればいい』、ということです。
 ただし【大前提】として、『【作者】が【理解】を得るために、【作品】に対して【全力】を尽くすこと』は【必須】です。当然のことに、『“【手抜き】の【姿勢】”は【信頼】に値しない』わけですから。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【観客】に【尊重】されたいなら、【作者】およびその【作品】としてまず【観客】を【尊重】せねば始まらない――というのが、私の【持論】です。

 【思考の自由】に対する【尊重】に始まり、実は【作者】のこの“【観客】を【尊重】する【姿勢】”にこそ【信頼】が集まるというわけです。もちろん【大前提】として、【作者】は【作品】に【全力】を尽くす、つまり【手抜き】はご法度ということになりますが。

 そしてこの“【作者】への【信頼】”を元として、さらに【表現】に対して“【信頼】という【説得力】”を【獲得】していくことになるわけです。
 次回はこの辺りを掘り下げてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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