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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第6回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、先日より、【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもありますね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 その上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と【考察】しますと、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと至ります。

 【手軽】ゆえに、『口(【言葉】)だけ【達者】』、『【言葉】だけなら何とでも言える』、という【姿勢】が成立するというわけですが。
 ならば同じ【言葉】であっても、【内容】を込める【難度】が高めであれば。
 これなら“【手軽】に騙そうという【邪な意図】”は弾かれやすくなる道理。そのために【具体】の集合体である【体験】は、【嘘】が通じにくい分だけ【信頼】即ち【説得力】に繋がりやすいはず――という、これは【推測】ということになりますね。

 この“【信頼】としての【説得力】”について、少し掘り下げてみますと。

 【持論】としては、【リアリティ】は、そもそも『【観客】の【認識】(【信じたい】か否か)に基づいて生まれるもの』です。
 つまり“【説得力】としての【リアリティ】”は、『【根源的】に、【作者】が【制御】できるものではない』ことになります。なぜなら、『【信じたい】か否かを決めるのは【観客】の心であって、外から操作できるものではないから』です。

 ここで、“【説得力】の源”として機能する【存在】を、『最初から【存在】するもの』ではなく、『“【観客】からの【信頼】”によって生まれるもの』と捉えてみれば、“【説得力】としての【リアリティ】”に関しても見えてくるものがありますね。

 もちろん【作品】において【現実(リアル)】と共通する部分を通じ合わせるのは【大前提】として、その上で【観客】が“【リアリティ】とされる【説得力】”即ち“【信頼】の【根拠】”を見出すのは、【作品】の中に【徹底】して込められた“【作者】の【姿勢】”にではないか――という、これは【仮説】です。

 なので前回は、“【作者】としての、【観客】への向き合い方”も含めた形で【考察】を展開してみました。

 こと【信頼】を念頭に置くなら、【観客】に【尊重】されたいなら、【作者】およびその【作品】としてまず【観客】を【尊重】せねば始まらない――というのが、私の【持論】です。

 【思考の自由】に対する【尊重】に始まり、実は【作者】のこの“【観客】を【尊重】する【姿勢】”にこそ【信頼】が集まるというわけです。もちろん【大前提】として、【作者】は【作品】に【全力】を尽くす、つまり【手抜き】はご法度ということになりますが。

 そしてこの“【作者】への【信頼】”を足場として、さらに【表現】に対して(今度は『【無知】ではない』という方面で)“【信頼】という【説得力】”を【獲得】していくことになる――という、これは私の【考察】ですが。

 今回はこの辺りを掘り下げてみましょう。

 ◇

 詰まるところ、【説得力】は、受け手(ここでは【観客】)が抱く【認識】によってのみ生まれるものです。その【認識】がどう生まれるかと申せば、『受け手(【観客】)の“眼前に【提示】された【情報】”と、受け手自身が持つ“【信頼】の【根拠】”と照らし合わせた時、“両者の間で【符合】する【情報量】”による』わけです。
 しかも『“【信頼】の【根拠】”として足る“【符合】の【情報量】”』というものは、あくまでも『受け手が“人生という【体験】”を通して築いてきた【判断基準】』によってのみ決まります。

 【信頼】を得る【大前提】として『受け手の【心理】や【人格】を【尊重】する』からには、『これを【他人】である【作者】が【侵略】していい道理』はありません。

 「それじゃ、【信頼】されるにはどうすればいいの?」という【作者】さんの声も聞こえてきそうですが。

 考え方としては単純です。
 『【作品】の中に、“【信頼】に足る【情報】”を可能な限り詰め込む』こと――【作者】としてできることは、実はこれしかないのです。

 「じゃあ【説明】を目一杯に詰め込もう!」と【短絡】しそうになった【作者】さんには、ここで釘を刺しておきます。
 『“【説明】という【言葉】”に込められる【情報量】』は、実はそれほど大したものにはなりません。『言った以上の【意味】が、そこには込めようがないから』です。

 先述しましたが、『【言葉】とは、【本質的意味】のみを伝えるのに向いた【媒体】』です。【本質的意味】以外を削ぎ落としたがために、『“【事実】と【認識】する【根拠】”が、あるいは“【信頼】に足る【情報】”のほとんどが、【言葉】そのものからは“【省略】されて”いる』ことも【無視】するわけにはいきません。

 つまりは『【百聞】は【一見】にしかず』。

 【百聞】、つまり“【説明】という【言葉】(【直言】)”をいくら並べたところで、【説得力】の上では【一見】、つまり“【具体的】な【体験】”には及ばない――と、いうわけです。

 ですが、ここに【ヒント】が【存在】します。
 【説得力】を【獲得】する上では【一見】、つまり“【具体的】な【体験】”は、【百聞】こと“【説明】という【言葉】”よりも圧倒的に【優位】なわけです。

 【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”の在処を思い出してみて下さい――“人生という【体験】”です。

 同時に【作品】として“【信頼】に足る【情報】”を【提示】する上で、【情報量】を稼ぐのに向いているのは何でしょうか――“【具体的】な【体験】”です。

 どちらも【体験】、ならば、こういう【仮説】が成り立つのではないでしょうか――『【作品】として【提示】する【情報】の形としては、【体験】が最も【有利】なもの』。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【観客】一人一人が持つ“【信頼】の【根拠】”というものを考えてみれば、つまりは『“【信頼】の【根拠】”に符合し得る【情報量】』をいかに多く仕込むか、というところに“【説得力】を築く足場”が見えてくるものですね。

 ここで【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”の在処にしても、また【情報量】を稼ぐ上で有利なのも、実は【体験】です。
 ならば“【体験】という形式”こそが、【観客】に“【信頼】の【根拠】”を【提示】するのに極めて【有利】な【表現】――という【仮説】が成り立つわけですね。

 この【気付き】を踏まえて、次回は“【信頼】の【根拠】”により踏み込んで【考察】を巡らせてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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