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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第4回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、先日より、【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもある――という考え方ですね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 まずはこの観点に立った上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と考えてみますと。
 【観察】と【考察】を経て絞り込んでみれば、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと考えが及びます。

 前回はこの【体験】にこそ【説得力】が宿る、その【背景】へ【考察】を巡らせてみました。

 【お手軽】という【性質】ゆえに、『口(【言葉】)だけ【達者】』、『【言葉】だけなら何とでも言える』、という【姿勢】が成立するというわけで。
 ならば同じ【言葉】であっても、【内容】を込める【難度】が高めであれば。
 これなら“【手軽】に騙そうという【邪な意図】”は弾かれやすくなる道理。そのために【具体】の集合体である【体験】は、【嘘】が通じにくい分だけ【信頼】即ち【説得力】に繋がりやすいはず――という、これは【推測】ということになりますね。

 今回はこの“【信頼】としての【説得力】”について、もう少し【考察】を巡らせてみましょう。

 ◇

 さて、ここで極めて【重要】な【気付き】があります。

 何かと申せば、『【説得力】は、“受け手の【信頼】”に基づいて生まれる』ということです。ここでいう【信頼】とは、『「【自分】に示されたものは【嘘】ではない」と信じること』ということになりますね。

 言うなれば、『【作者】とその【作品】が【説得力】を【獲得】するには、【観客】との間に【信頼関係】を【構築】することが【必須】』ということです。

 ここで、“【説得力】と関連付けて【連想】されやすい【概念】”として、いわゆる【リアリティ・ライン】というものを挙げておきます。

 この【リアリティ・ライン】なるもの、私は『【リアリティ】を感じるか否か、という“【嘘】の【程度】”を表す【境界線】』と【認識】しております。
 ですが、この【リアリティ】は、そもそも『【観客】の【認識】(【信じたい】か否か)に基づいて生まれるもの』です。
 なぜなら、先述の【論理】からすれば、そもそも【リアリティ】そのものが『“【観客】が自ら抱く【信頼】”に基づく【説得力】』であるからです。

 何が言いたいかと申せば。
 【リアリティ・ライン】なるもの、これは【作者】から【観測】するに、『固定されていない、当てにならない』ことを【意味】します。
 つまり、『【根源的】に、【作者】が【制御】できるものではない』わけで、言い換えれば『【作者】として【意識】しても仕方のないもの』という【認識】ですね。
 ただし代わりに、私は【信頼】の【構築】を極めて【重要視】するわけです。

 この場合、【説得力】にも通ずる【リアリティ】とは『【観客】が【物語】について「【擬似体験】として【信じる】に値するか」を【判断】する【材料】の【存在感】』であって、その【意味】では“【説得力】の源”と捉えることができるでしょう。

 ただし先述の通り、『【説得力】は“【観客】が【作者】や【作品】に対して自ら抱く【信頼】”によって【成立】するもの』です。
 なので、『【信頼関係】の【構築】なくして、最初から【説得力】(≒【リアリティ】)が【存在】する【前提】』に立つ【リアリティ・ライン】の【概念】については、少なくともその【実用性】については、私は懐疑的です。

 少なくとも私は、『後の【大ヒット作品】が、公開当初の時点で【アンチ】に【作品コンセプト】を貶された場面』を目撃したことがあります。

 貶し言葉のうち少なくとも一種類は、おおむね「そんなのあり得ないだろ」というもの。【要約】を試みるなら、いわく「この【作品コンセプト】には【リアリティ】がない、【説得力】がない」というわけです。
 つまり【作品】を貶した【アンチ】にとっては、『当の【作品】の【設定】は【リアリティ・ライン】を割った』ということになりますね。

 ここで、【大ヒット作品】の数々を振り返ってみて下さい。
 『「突拍子もない」「【信じ】にくい」とされやすい【設定】に立脚していながらも、数多の【観客】が【没頭】し【感情移入】してしまった【大ヒット作品】』というものは、間違いなく【存在】します。それも一作や二作などという少数ではありません。

 私見ながら申し上げたいのは、『【観客】にとって“【説得力】の源”とは、「【現実】からの乖離の少なさ」という“【程度】の【問題】”“などではない”』ということです。
 私が【リアリティ・ライン】という“【程度】を【判断基準】とする【概念】”に、少なくともその【実用性】に懐疑的なのは、そういう【背景】に基づいてのことです。

 【大ヒット作品】にのめり込んだ数多の【観客】は、少なくとも“「突拍子もない」「【信じ】にくい」とされがちな【設定】”を受け入れ、【作品】の中に“【説得力】の源”を見出していることになります。この【観客】たちにとっての【リアリティ】とは、『【観客】が自ら抱いた【信頼】に基づく【説得力】』であり、つまりは『【観客】が【物語】について「【擬似体験】として【信じる】に値するか」を【判断】する【材料】の【存在感】』、であったのではないでしょうか。

 であれば、私が先に挙げた『【作者】とその【作品】が【説得力】を【獲得】するには、【観客】との間に【信頼関係】を【構築】することが【必須】』という【考察】に、一定の【説得力】が宿ることになります。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 “【説得力】の源”として機能する【存在】を、“【観客】からの【信頼】”と捉えてみれば、【リアリティ】に関しても見えてくるものがありますね。
 もちろん【作品】において【現実(リアル)】と共通する部分を通じ合わせるのは【大前提】として、その上で【観客】が“【リアリティ】とされる【説得力】”を感じるのは、【作品】の中に【徹底】して込められた“【作者】の【姿勢】”によるものではないか――という、これは【仮説】です。

 であれば【作者】として、【観客】への向き合い方についても【整理】できそうですね。

 なので次回は、“【作者】としての、【観客】への向き合い方”も含めた形で【考察】を展開してみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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