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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第10回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもありますね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 その上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と【考察】しますと、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと至ります。

 ここで、“【説得力】の源”として機能する【存在】を、『最初から【存在】するもの』ではなく、『“【観客】からの【信頼】”によって生まれるもの』と捉えてみれば、“【説得力】としての【リアリティ】”に関しても見えてくるものがありますね。

 【観客】を【人格】として捉え、それぞれ【個性】を持つ【観客】一人一人が抱く“【信頼】の【根拠】”というものを考えてみれば。つまりは『【個性】に基づき、“【信頼】の【根拠】”は【多様】に【存在】する』わけです。
 となると“【信頼】の【根拠】”は【他人】の身で決め打ちできるものではない、ということになります。従って『“【信頼】の【根拠】”に符合し得る【情報量】』をいかに多く仕込むか、というところに“【説得力】を築く足場”が見えてくるものですね。

 ここで【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”の在処にしても、また【情報量】を稼ぐ上で有利なのも、実は【体験】です。

 ならば“【体験】という形式”こそが、【観客】に“【信頼】の【根拠】”を【提示】するのに極めて【有利】な【表現】――という【仮説】が成り立つわけです。

 【体験】として描かれる“【現象】の【現場】”には、それこそ【現実】に通ずる“【信頼】の【根拠】”が(水面下の【事実関係】として)【最大限】に含まれる――という。これは【フィクション】であっても変わりません(もちろん、【現実】に準じた【事実関係】を【体験】に織り込んでおく必要は有りますが)。
 この手間をかけた分だけ、【観客】には“【嘘】に【存在】しないもの”を認めてもらいやすくなる、言い換えれば【信頼】してもらえる【可能性】は高まるわけですね。

 これを受けて、【体験】として“【現象】の【現場】”を作り込む、その際の【作者】の【姿勢】についてまとめを試みるならば。

 自他の【人格】と【思考の自由】を【尊重】し、かつ【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”と【作品】内の【事実関係】を符合させ――と、これは一見して回りくどいやり方です。ですがこれに私がこだわる【背景】には、一つには“浅はかな【小悪党】”との間に明確な線引きを試みる【姿勢】があるわけです。

 実はこの【姿勢】、私が【攻略法】とされるものに対して懐疑的である【理由】とも重なります。

 前回はこの辺りについて【考察】を巡らせてみました。

 “【信頼】としての【説得力】”を【獲得】したいなら。さらには“より豊かな【観察眼】および【審美眼】を持つ【観客】”から、より大きな【信頼】を【獲得】したいなら。言い換えれば【影響力】を備えた【支持】を受けたいなら。

 “浅はかな【小悪党】”の手口に重なって映りかねないやり方には、もはや【危険】しかないわけです。

 その点、“【攻略法】とされる【言葉】”を使うということは、『手っ取り早く“【説得力】の源”である【信頼】を【獲得】しようとする【姿勢】の現れ』、言い換えれば『“浅はかな【小悪党】”の手口』という【判断】と【警戒】を招きやすいものです。

 よく、“【攻略法】の手っとり早さ”に【効率】を結び付けて語られる【場面】を目撃しますが。

 本来【効率】とは『投入した【コスト】(時間、労力、資金など)に対する、【効果】の割合』です。その上で、『【効果】がそもそも見込みにくい、得られたとしても小粒なものしか見込めないやり方』であれば、【期待】する【効果】のほどは絶望的に乏しいことになるはずです。
 つまり【効率】の面から見ても、“浅はかな【小悪党】”の手口に重なる、そう疑われやすいやり方は悪手になりやすい――と、そういうことになりますね。

 そう考えてみると、今度は【作品】から【作者】の器、その大きさまでもが覗いてくることにもなりそうです。

 今回は、この点について【考察】を巡らせてみましょう。

 ◇

 以上の【考察】を踏まえて【観測】してみると、今度は“【作者】の器の大きさ”までもが浮き彫りになってくるものです。

 【現実】に見かける【光景】ですが、【作者】がこう叫んでいることがあるもので。

「【攻略法】を実践したのに、【観客】が【作品】に【没入】しない! 【反応】が薄い! アラばかり【指摘】する!」

 これ、私は【危険信号】と【判断】します。

 なぜかと申せば、この叫びは「【作者】である【自分】が“【説得力】=【信頼】”を【獲得】できないのは【観客】のせいだ!」とする、要は【責任転嫁】でしかないからです。

 ここまでの【考察】を踏まえるに、このような【作者】の【姿勢】は『【自分】の【技量不足】や浅はかさを棚に上げて、「カモが【詐欺】に引っかからない!」と叫ぶ【小悪党】の【姿】』そのものです。

 この点、【解説】を試みてみましょう。
 そもそもこの【作者】は、『【攻略法】に頼りきりで、【説得力】つまり【信頼】を【獲得】するための【工夫】(【過程】と【努力】)をケチっている』わけです。
 それでいながら『【成果】(【結果】)としての【説得力】を求めて恥じない』のですから、この時点で『この【作者】は“浅はかな【小悪党】”』と【判断】するに相応しいものがありますね。
 しかも『この【内容】を【他人】に向けて叫んだ時点で、“【作者】自身の器の小ささ”を【アピール】していることになる』わけですが、当の【作者】はこの【事実】からも【眼を背けている】ことになります。

 「じゃあ“器の大きい【作者】”とやらは、どうしているんだ!? 【攻略法】を全く使っていないとでも!?」という【反感の言葉】は、私としても【予想】のうちです。

 そも“器の大きい【作者】”は、黙って“【説得力】という【信頼】”の【獲得】方法を【模索】し【実行】しています。
 また、その【過程】で【攻略法】に重なるやり方を【発見】して【実行】するにしても、ポン置きはせず『【作品】内の【状況】に応じて【作り込み】を施す』ものです。

 さらにこの部分、【解説】を試みましょう。

 まずは“黙って”という点について。
 “器の大きい【作者】”が悟っているであろうことに、『【信頼】を【獲得】するには【不言実行】が最も確実』という【事実】があります。

 この点、「【有言実行】が一番じゃないか!」という【反論】も私は【予測】しますが。

 実は【有言実行】は、『【実行】することを【アピール】して、そこに【注目】を集める』という側面を持ちます。
 これが【役割分担】を決めて進めていく仕事の上ならば、『【自分】の受け持ちを【アピール】する』のは大いに【有効】です。気心の知れた【仕事仲間】だけが、仕事の上である程度の【信頼関係】をもって【存在】しているからです。

 ですが、ここで【問題】にしているのは【創作】です。関係を持つ人々の【数】も【範囲】も、“気心の知れた人間関係”に留まるものではありません。

 【創作】においては、【作者】も【観客】も玉石混淆、“【説得力】という【信頼】”に対するスタンスも百人百様です。『手っ取り早く【信頼】を【獲得】して【評価】や【金銭】をちょろまかそうとする“浅はかな【小悪党】”』ももちろん、その中には紛れています。
 そして“浅はかな【小悪党】”は、『直接的に【積み上げ】を【アピール】する【傾向】』を強く持ちます。その方が『より手っ取り早く、【効率】よく“偽りの【信頼】”をでっち上げられる』と考えているからです。

 このことから、『直接的に【積み上げ】を【アピール】する』というのは『“浅はかな【小悪党】”と疑われる【根拠】を自ら晒す』ことになるわけです。
 その観点からすれば【有言】それ自体が【逆効果】、『【アピール】していないところでは【積み上げ】ていない』という“マイナスの【アピール】”にもなりかねない、というわけです。

 また【有言実行】に近いものとして、“【攻略法】頼みを【アピール】する【姿勢】”が挙げられます。

 と申しますのも、『“【攻略法】頼みを【アピール】する【姿勢】”というものは、「【攻略法】で謳われている通りの【内容】を、謳われている【組み立て方】でしか【実行】しない」という(暗黙の)【アピール】でもある』からです。
 つまり『【Case by Case】の【違い】には【対応】しない』、言い換えれば『【アピール】していないところでは“【信頼】の源”を【積み上げ】ない』という【アピール】を、自ら打ち出していることになります。

 これに対して、【観客】が“浅はかな【小悪党】”を相手に不愉快な思いを味わった【経験】の持ち主であるほど、このような【姿勢】には【嫌悪感】を覚えやすいはずです。ましてや“観る眼の確かな【観客】”ともなれば、その【嫌悪感】を誘う【原因】を、“浅はかな【小悪党】”の【悪意】と直接的に結び付けて【記憶】し【警戒】していたとして、何ら不思議はありませんね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【他人】の立場から【信頼】というものを見ようとするなら、その手がかりは【当人】の【言動】に求めるしかありません。いずれの側も【心理】を読み取ることも、ましてや『思い通りに操ること』もできないわけですから。

 そう考えるとき、【作者】の【言動】が“浅はかな【小悪党】”と重なって映ってしまうとしたら。
 これは【作風】や、【作品】にまつわる【言動】も含めてのことになりますが、そこに【観客】が浅はかさを、悪くすれば【悪意】を読み取ったとしても、責めるべき【理由】は【存在】しません。しかもこの【傾向】は、【観客】が【観察眼】を充実させているほど強まります。【観賞経験】に比例して“不愉快な【経験】”を得た【可能性】は大ですし、そこから学んだ【可能性】も同様ですから。

 次回はこの点をもう少し掘り下げて、“【攻略法】を【アピール】する【姿勢】”と“【作品】の【作り込み】”との【関係性】について、【考察】を巡らせてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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