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【「真夜中の電話はいつも」(七) 】

 街ももう寝静まり始めた真夜中に、玄関の小さな明かりに照らされながら僕は吐瀉物にまみれた由佳のスニーカーをウェットティッシュで拭いていた。
 液体ばかりのそれは、少なくともここ数日の由佳の私生活を物語っているようだった。
 場所を移した先でも相変わらず強めのアルコールぐらいしか口に運べずにいた由佳は、夜の街をフラフラとおぼつかない足取りで歩きながら、
「私の方があの子より加瀬のことをもっと深く理解してあげられるし、私の方が加瀬の考えるイメージを形にしてあげられるし、私の方がっ、」 
 と、悲鳴にも似た声を上げると同時にゴポッという音を立てながら路上に吐瀉物を吐き散らした。
 あの子、と聞いて僕は試写会で加瀬の隣に座り、幸せそうに笑う今村和美の横顔を思い出していた。
「私だって、私だって、」
 口元から流れ落ちる雫をそのままに、俯いて身体を震わせながら首を振る由佳の冷え切った手の冷たさに驚きながら、僕は由佳を胸元に引き寄せた。
 その瞬間、由佳の中に押し殺していた全てが溢れ出したように、
「わぁぁっ」
 と大声をあげて由佳は泣き出した。
 少し遠巻きに僕たち二人を眺めながらすれ違う通行人たちにちらりと目をやりながら、僕は抱き寄せた由佳の頭を何度も撫でた。
 やがて子供のように「んうぅ、んんぅっ」としゃくりあげながら僕の胸の中でひとしきり泣いた由佳の身体がだらりと崩れ落ち、僕は慌てて由佳の身体を抱きかかえた。
 すぐに側を通り掛かったタクシーを止めてぐったりとした由佳を乗せ、吐瀉物のすえた匂いが車内にこもらないように窓を開けながら、行き先を告げることが出来ないことに気づいた僕はしばらくの間途方に暮れた。
 シミにならないように何度か拭いたスニーカーの匂いを少し確認してから玄関に揃えた後、僕は寝室のベッドで眠る由佳の様子を窺った。
 口元にタオルを当てて半ば無理やりに水を飲ませてもいたので、いつまた嘔吐をしても大丈夫なように枕元を囲むように敷いたバスタオルの端を、由佳は眠りながらぎゅっと握りしめていた。
 飛沫がついていたために脱がせたストールとワンピースは水を張った洗面所に漬け置きをしていた。この後でアイロンを当てれば由佳が起きるまでには何とかなるだろう。
 静まりかえった部屋の中で、小さな寝息を立てる由佳の顔に掛かった髪を指でとかしながら鼓動で身体が揺れた。
 
 「少し前に友達に相談されたんです。気になる人から声を掛けられたんだけど、相手には奥さんがいる人でって。由佳はどう思う?って」
 カウンターに数席あるだけの小さなバーで、消毒薬にも似た香りのウイスキーのグラスを両手に持って揺らしていた由佳は、
 「私のお古でいいならどうぞ、って言いかけて、みっともないなって。だから、好きなんだったらしょうがないんじゃない?って、」
 そう言いながら目元を少し指で拭った。
 「よかった、って。これであの人ことキライになれるから、ちょうどよかったんだって、私」
 何度も何度も目元を拭う由佳の指の隙間を縫うように、幾つもの涙がこぼれ落ちた。
 軽く絞ったワンピースとストールにハンカチで当て布をしながらアイロンをかけ、少し肌寒さを感じるようになった夜に、僕は通り過ぎる季節の終わりを感じた。
 寝返りを打ち、仰向けになった由佳の身体をその度に横向きにして、一通りアイロンをかけ終えると僕はベッドの側の壁にもたれるようにしゃがみこんだ。
 なぜ僕に?という理由を抜きにしても由佳の言葉一つ一つに心を傷める僕は、きっと由佳のことが好きなのだろう。
 目覚めた時、由佳は僕に何と言うだろう。そして僕は由佳になんて声を掛ければいいだろうか。
 それより由佳はこのまま永遠に眠り続けてしまったりはしないだろうか。
 そんなことを考えながら、流れていく夜に僕の意識が溶けた。
 「おはようございます」
 由佳の声に慌てて目を覚ました僕は、声のする方に顔を向けるとベッドにうつ伏せに枕を抱きながらこちらを見つめる由佳と目が合った。
 「よかった。私、天国って白い壁なんだって一瞬思っちゃいました」
 ふふふと笑う由佳に、
 「大丈夫?」
 と問い掛けると、由佳は枕に顔を埋めながら黙って小さく二度頷いた。
 僕はふーっと安堵の溜め息をついて立ち上がり、
 「よかった」
 そう言いながら、衝動の赴くまま背中越しに由佳を抱きしめた。

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