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【「真夜中の電話はいつも」(二) 】

 昨日のそれも今と似たような時間だった。
「元気?」
 深夜の一時を過ぎた頃、もう遠くへ忘れたはずのイニシャルから唐突にメッセージが届いた時、僕は別に気づかなかったふりをしてもいいはずだった。
 随分と思い悩んだような気もしたが、その時間はものの5分程度の間だった。 
「どうしたの?」
 返事を打ち返してすぐに僕は後悔をしたが、間を置かずに
「終電逃した」
 というメッセージが送られてきた。
  
 大通りを最寄駅に向かって歩きながら、吐く息が街灯に照らされてぼんやりと白く光った。
 通り過ぎる街路樹の葉も、もう全て落ちていて、いつの間にか柔らかに吹く風ですら皮膚を刺すような冷たさがあった。
 駅前の七福神のモニュメントの前に辿り着き、キョロキョロと辺りを見渡す僕に、
「よっ」
 と呼び止める声がして、振り向くと街灯に寄り掛かりながらひらひらとこちらに手を振るグレーのロングチェスターコートの女の姿が見えた。
 彼女の名前はそうだ、由佳とでも呼んでおこうか。
 由佳の側に歩み寄った時、街灯の明かりの下でも由佳の顔からはすでにアルコールが回りきっているのがわかった。
「久しぶり」 
 どろんとした目におぼつかない口元で笑顔を見せる由佳に
「うん、そうだね」
 と僕は頷いた。
「髪、短くしてるんだ」
 僕の問い掛けに、
「ん?あ、そうか、昔はもうちょっと伸ばしてたもんね」
 由佳はそう言うと、肩口あたりで切り揃えられた髪を摘んで確かめるように少し持ち上げた。
「飲める?少し話しよ」
 そう言って、由佳は僕の返事も待たずに線路沿いの商店街に向かって歩き出した。
「大丈夫なの?もう結構飲んでるんでしょ?」
 後を追う僕の言葉に
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
 と振り向きもせずに由佳は答えた。
 彼女はいつもそうだった。何をするにしても言葉にする前には彼女の中ではすでに結論が決まっていて、しかもあたかもそれが相手にも了解を得ているかのように振る舞う。
 商店街へと渡る手前の赤信号で立ち止まり、目の前を何台ものタクシーが通り過ぎる中、
 「寒いね」
 そう言って由佳は軽くあごを上げて確かめるように白い息をはぁっと吐いた。
 そうだ、あの時もちょうどこんな寒い日の夜だった。
「ごめんね、やっぱりまだ誰かを本気で好きになれそうにないや」
 コートのポケットに両手を突っ込んだまま、きまりが悪そうな笑顔を作った由佳は終始俯き加減のまま、僕と目を合わせようとはしなかった。はぁっと軽く吐き出した由佳のため息が白く光りながら冷たい風の中に消えた。
 心当たりは充分にあった。彼女の中に忘れられない人がいる。それは僕たち二人の関係のきっかけでもあった。
 それでも、その時の僕は由佳の気持ちを受け止めきれずにいた。 
「このまま結婚するっても幸せなのかもなぁ」
 由佳と付き合い始めて三ヶ月ほどした頃に、新しく買い直したセミダブルのベッドの中でカーテンの隙間から溢れる朝の光を浴びながら由佳がボソッと呟いた言葉に、僕は寝惚けて聞こえていないふりをしながら、息がつまりそうになるほど幸せな気持ちで満たされていた。
 由佳が別れ話を切り出したのは、その翌週の出来事だった。

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