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【「真夜中の電話はいつも」(四) 】

 試写会の翌日から僕は全身の怠さと上がることも下がることもないだらだらとした微熱を抱えたまま、三日ほど寝込んだ。
 張り詰めた緊張の日々から解放された気の緩みのせいか、普段もプロジェクトが終わる度に熱を出すことが多い僕は年々その回復に時間が掛かるようになってきた自分の身体に、知らず知らずの間に衰えというものを現実として感じるようになってきていた。
 日中は特に何もする気が起きず、ベッドの中で曲げる度に関節からギシギシときしむ音が聞こえてきそうな腕で手に取った読みかけの本をパラパラとめくってみても、字を追う集中力もなく、昼となく夜となく浅い眠りが細切れに続く毎日に、もしもこの状態がこのまま一生続くようならばどうしようかなどと思ってみては、僕はその度に軽い絶望に陥っていた。
 
 三日目の夜、真っ暗な部屋の中で枕元に置いていた携帯電話の光が部屋の天井をぼんやりと白く照らした。
 相変わらず続いていた微熱と気休め程度にでもと飲んでいた風邪薬の眠気の中でまどろみながら手にした携帯電話の画面には、『槙村由佳』という名前が表示されていた。
 この電話に出ると、きっと僕の人生が大きく変わってしまうだろう。
 何故だかそんなことを考えながら、僕は携帯電話を耳に当てた。
 同時にちらりと視界に入った時計の時刻は深夜の一時を過ぎていた。
 
「あの、遅くにごめんなさい。ずっと会社の方をお休みされてるって聞いて、私、試写会も行けなかったし、ちゃんとお礼も言えないままになりそうで、あっ、でも、体調崩されてるのに夜中に電話なんかして、なんだか言ってること無茶苦茶ですけど、」
 電話を掛ける前に伝えたい言葉を考え過ぎていたのだろうか。僕が電話に出た瞬間に挨拶もそこそこに由佳は真夜中の電話の理由を早口で述べ立てた。
「わざわざお電話ありがとうございます。けど、いつものことなので大丈夫ですよ。仕事が一つ終わると何でかいつも熱出しちゃうみたいで。それより槙村さんも熱出してたって伺ってたんですけど、風邪?ですか」
「あ、いえ、別に風邪ってわけではないんですけど、ちょっと、具合が悪くて」
 そう答えると、由佳はそれから押し黙ったまま電話口からはサーッという柔らかなノイズだけが聞こえてきた。
 今、彼女はどこから電話をしているんだろう。
 一人?でいるのかな。
 こんなに遅くなるまでずっと電話をするべきかどうか悩んでいたんだろうか。
 目を閉じて電話の向こう側へ耳をすませるほど、僕の耳の奥に流れていく柔らかなノイズが由佳の存在を浮かび上がらせるように思えた。
 仕事で目にする由佳の姿はいつも鬼気迫るという言葉が似合うほど、PCのモニターを睨みつけるように凝視しながらひたすらマウスとタブレットペンを走らせていた。
 服装も気を遣いたくないからという理由で、きまって黒のスキニーパンツに白のブラウスといった格好で、時折、椅子の上で胡坐をかいたり、立膝をついたりしながらそれでも作業の手を休めない姿を見掛けるたびに、職人が背中で語るとはこういうことかなどと勝手に納得をしてみては、僕は感嘆の笑みをこぼすことしか出来なかった。
 
「あ、あの、お礼だけ伝えたくて。それじゃ、おやすみなさい」
 しばらくして、思い出したように由佳は呟くように僕に告げた。
 あっ、このままじゃダメだ。
 急速に薄れていく由佳の残像に、咄嗟に伸ばした僕の意識の手のひらが宙を掴んだ。
 違う、そうじゃない。
「槙村さん」
「えっ、はい」
「どこか、行きたいところあったりしますか?」
「えっ?」
 いま思い返してみても、もう少しまともな誘い方があったような気はするのだけれど、それでも。

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