彼女の03

『彼女の髪が肩まで伸びたなら(三)』

「昨日は悪かったな」
 携帯電話への友人からのメッセージの着信音で目覚めると、すでに部屋のカーテンからは朝の日差しが入り込んでいた。
「いや、全然。逆に楽しく過ごせたよ」
 まだ少し寝ぼけた頭で返信を打ち、ベッドから起き上がった。
「なんだ?なんかうまいことやりやがったな」
「ご想像にお任せします」
「ちぇ~っ、人が仕事で忙しいのによぉ」
 メッセージを見ながら、ふっ、ふっと笑い、目覚めのコーヒー用にポットでお湯を沸かしながら、あっという間に通り過ぎた昨晩の出来事を反芻した。


 タクシーで帰ると椅子から立ち上がる亜弓に、見送りだけでもしようかと尋ねると、
 「ありがとう、大丈夫」
 と、亜弓は僕の頭にそっと手を置いた。
 言葉の順番が逆ならまだよかったのに。
「ありがとう」よりも「大丈夫」という響きが耳に残って、もうそれっきりかもしれないという予感がつのり、
 「また会える?」
 と野暮な言葉が思わず口をついて出た。
 亜弓は何も言わず、ただ軽く微笑んで頷いた。

 「あちっ」
 ぼんやりとしたまま口に運んだドリップしたてのコーヒーで、僕は舌先を少し焼いてしまった。

 「あっはは、連絡先も交換しなかったんだろ?そりゃダメだ」
 昼下がりの事務所で、一部始終を聞いた僕の雇い主である所長の山岡は、丸みのある顔をさらに丸く膨らませながら笑った。
 
 「まぁ、期待は薄いと思うけど頑張ってな」
 と、形ばかりの励ましの言葉を掛けると、僕の前に週末の打ち合わせ用の資料を山積みに置いた。
 最寄駅の駅前に新しくオープンする飲食店のロゴデザイン、製麺機械制作会社のパンフレット用の挿絵、地元の商店街の振興促進のためのキャラクターデザイン、、、来るもの拒まずが方針とはいえ、よくぞここまでバラエティのある仕事を取ってくるものだとつくづく感嘆してしまう。
 それもすべて、所長の行きつけの飲み屋での繋がりだったりするのだから、もしかしたら日本の仕事は全て酒場の中で回っているんじゃないだろうかと思わず錯覚してしまった。
 親指で資料の紙の厚みをパラパラっとなぞりながら、押し流されていく日常の中でいつかは消えてなくなるだろう感触が寂しくて、亜弓が置いた手のラインを指でそっとなぞってみた。


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