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【「真夜中の電話はいつも」(六) 】

「愛人でもいいって加瀬さんには伝えたんです、私」
 由佳は俯向いたままそう言うと、グラスの氷を指先でくるりとかき混ぜた。
 想像していたこととはいえ、由佳の口から直に聞く愛人という言葉の響きは、さらりとしたその言い回しに反して僕の後頭部にずしりとした重みを残した。
「学生の頃から加瀬さんの監督作品はよく見てましたから。すごく尊敬できる方だったし」
 そう言って、由佳は加瀬との馴れ初めを話し始めた。
 由佳がまだ学生だった頃、通っていたCGの専門学校に加瀬が特別講師として現れたのが初めての出会いだったこと。
 その時に加瀬が由佳の創作物をとても評価してくれたこと。
 その後、加瀬の口利きで加瀬が懇意にしていた大手の映像プロダクションで在学中から働き始めたこと。
 加瀬の作品に初めてメインスタッフとして参加をしたこと。
 その打ち上げの日の夜に、加瀬に求められたこと。素直に嬉しかったこと。
 
 加瀬はすでに結婚をしていたが子供はおらず、多忙を極める日々の中でいつしか夫婦の間に会話はなくなり、自分の伴侶に別の男がいるということも加瀬はうっすらと気づいているらしかった。
 それでも短いなりにも無名の駆け出し時代の加瀬を支えてくれた人を切り捨てることは、自分の無責任な過去に目を瞑ることのようにも思えたらしく、相手から切り出されるまではあえて加瀬の口から離婚という言葉は口にしないつもりでいるとのことだった。
 
「別にそのことに関しては気にはならなかったんです。加瀬さんの側で仕事ができるって、それだけで嬉しくて。けど、」 
 由佳が加瀬と仕事を重ね、全身全霊で加瀬の作品の奥深くに入り込めば入り込むほど、加瀬は困ったような表情を由佳に見せるようになったらしい。
「俺はそんなにダメかな、って。目も合わせないで私に言うんです。あぁ、私、知らない間にあの人のこと傷つけてきたんだって」
 自分の才能に自負のある人間ほど、いつかその分だけ目の前に現れる才能に追い詰められる。
 創作物に正解はない。だが、目の前の高さだけは肌でわかるものだ。
 たとえ、それがつい最近学校を出たばかりの一回り以上歳が下の相手のことだとしても。
「お前といると自分がわからなくなる。次で全て終わりにしよう」
 それが加瀬が由佳との関係の中でたどり着いた結論だった。
 せめてもの優しさなのだろう。最後に加瀬は助監督として由佳を自分の間近に置くことで、自分が持ちうる仕事のやり方の全てを由佳に晒した。
 僕が関わった今回の仕事は、由佳と加瀬が別れることを前提として作られた共作だったのだ。
 話の合間に運ばれてきた料理に僕は一切箸をつけることも出来ないまま、先日の試写会で会場が一番湧いたラストシーンを思い出していた。
 由佳が絵コンテからやり直したいと主張したそのシーンは、初めはヒロインが街から去りゆく主人公の背にすがりついて泣くという流れで、その方向で一度は映像が完成して監督のOKも出ていた。
 だが新しく作り直されたシーンでは、別れ際にヒロインの頬に口付けをして離れた主人公の唇にヒロインが自らの唇を寄せるカットに変更されていた。
 ある意味でそれは現実で加瀬が出した結論に対しての由佳なりの精一杯の返答のように思えた。
 加瀬はこれまでも監督の権限で由佳の意見はいくらでも切り捨てることも可能だったはずだった。
 だが、それをしなかったのは自らの面子を保つための言い訳の毒が、加瀬の中のクリエイティブを殺すことになることを加瀬本人も気づいていたのだろう。
 それでも最後の最後まで由佳のクリエイティブを受け切った加瀬の度量に、僕は鳥肌が立った。
 「あの人に褒めて欲しかっただけなのにな」
  氷が半分以上溶けたグラスに少し口をつけた由佳は、「あっ」と思い出したように僕にグラスを向けると、
 「そういえば乾杯まだでしたね」
  と淋しく笑って見せた。

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