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【「真夜中の電話はいつも」(五) 】

 平日の昼下がり、理科室を思い出させるような懐かしい造りの建物の中で、遠目にはまるでクラゲが浮かんでいるように見えたものは、イルカの胃を食い破った何百何千という線虫の塊だった。
 真夜中の電話口、僕の誘いに
「あの、笑わないで頂けます?」
 と前置きをしてから、由佳は行ってみたい場所として、
「この間、たまたまテレビで見たんですけど、寄生虫の博物館ってところがあるみたいで」と告げた。
「寄生虫、好きなんですか?」
 僕にはあまり理解は出来なかったが、世の中には爬虫類や昆虫など、ある特定のジャンルを熱烈に愛でる人がいることはなんとなく知っていたので、由佳の場合ももしかするとあの白くヒョロヒョロとした姿が柔らかそうとか可愛いとかそういうことだったりするのだろうかと、僕は自分を納得させられるだけの理由をいくつか頭に思い浮かべた。
「いえ、好きというか、どちらかというと気持ち悪いんですけど、私、見たくないものを見ないでいるのは、もうやめようと思って」
 と、由佳は僕の誤解を打ち消すように、その理由を述べた。
 館内は平日ということもあってか、僕たち二人以外に年配の来館者がちらほらと見える中、白のシャツワンピースにネイビーのフリンジストールを羽織った由佳の後ろ姿を見つめながら、僕は初めて目にする由佳のスカート姿の感慨も吹き飛ぶほど、終始そわそわと落ち着かない気持ちを抱えていた。
 博物館の中に足を踏み入れた途端、館内のどこを見渡しても線虫やヒルのホルマリン漬けの標本が立ち並び、時折箸休めのように線虫に寄生されたウミガメの生首やネズミの内臓などの標本が置かれているその空間は、居もしない自分の体内に這い回る虫を想像させて、僕は気を紛らわせるために自分の指先や肘のあたりを摘んでみてはぎゅうぎゅうと揉み続けた。
 そんな中でも、由佳は目を薄目にしながらもかれこれ10分近く、目の前のイルカの胃に群がる線虫のその細部ひとつひとつをじっと見つめていた。
「このひとたち、何を考えて毎日を生きてるんだろう」
「やっぱり美味しいものとか食べられた日は幸せなのかな」
「好きな人とかいたりするのかな」
 自らに問いかけるようにブツブツとつぶやきながら、由佳はそれから館内の標本やパネルを薄目ながらも決して目を逸らすことなく一つ一つ丁寧に見てまわった。
 ひどく子供染みたように感じる由佳のそれらの疑問も、作品の作り手としては決して失ってはならない感性に違いなく、僕はバカみたいに自分の指をグリグリと抓りながら、クリエイティブという世界において、僕と由佳の間には決して渡ることの出来ない深い境界が横たわっているのを感じた。
 
「楽しかった」
 館内から外に出る頃には陽も随分と暮れかかっていたが、何か得るものがあったのだろう、由佳の表情はとても晴れやかで僕もつられるように自然と笑みがこぼれた。
「何か食べて帰りましょうか?」
 僕の言葉に由佳は「うーん」と少し考えたのち、
「うどんとパスタ以外ならなんでも」
 と口元を少し歪めながら笑った。
 だらだらと一週間近く続いた僕の微熱も気づけばもう下がっていて、こうして誰かといることが楽しいと思えるのは本当に久しぶりのことに思えた。
 
 駅に向かって歩く途中で、「ここ気になる」と由佳が指を差した地下の焼き鳥屋の個室で、由佳は改めて
「今日はありがとうございました」
 と僕に向かって頭を下げた。
「本当に、ちゃんとお礼を言えてよかったです。色々無茶な仕事してましたから。あの、途中で降りて頂いたベテランの方、」
「三上さん?」 
「そう、三上さん。あの人には悪いことしたと思う」
 そう言って由佳は少しうつむき加減で前髪の生え際あたりを指で少し掻きながら、ふーっと長めの溜息をついた。
「僕もはじめ加瀬さんに降ろして欲しいと言われた時はびっくりしましたけど、土壇場って状況を抜きにすれば言ってることは間違っていない気がしたし、そもそも紹介したのは僕ですから。仕方ない。うーん・・・仕方なかったんだと思います」
 制作スタッフの仕事は状況が許す限り、監督が望む最大限の環境作りをすることだと僕は思っている。
 監督という職業は一見華やかに見えてその実、一時とても勢いのあった監督がたった一つの躓きだけで表舞台から消えていく姿を、僕はこれまでに幾度となく見てきた。
 そもそもが制作期間中は同じプロジェクトを遂行する仲間でいながらも、最後には納品日という断頭台にクリエイターを上げなければならないのもまた制作なのだ。
 どんな仕事にも後悔は絶対につきものだけれど、その後悔の粒が少しでも柔らかく、いつの日か幾らかでも綺麗に見える日がくればいいと思える努力だけは精一杯しないといけない。
 それは裏を返せば、人の人生を左右してしまうかもしれない罪の意識から目を背けるためにはそう思うしかないということでもあった。
 ただ一方で、三上というフリーのベテランCGクリエイターとは僕が映像の仕事を始めた時、その時の上司に紹介されてからの付き合いで、駆け出しの僕にクリエイター目線で見た仕事の段取りを教えてくれたり、条件が厳しい案件を引き受けて貰ったりもして、そう、今回の加瀬の作品にも半ば無理を言って参加して貰ったという経緯があった。
「すいません」としか言えないまま、仕事を引き上げる旨を通達して以来、僕はまだ三上には何も連絡を出来ずにいた。
「あの、」
 俯き加減で由佳は、
「あの人に降りて欲しいって言い出したの、私なんです」
 ときまりの悪そうな表情を浮かべてそう言った。
「えっ?」
「あと、監督がOKを出していたシーンを絵コンテからやり直させてもらったのも」
「そう・・・なんですか」 
「加瀬さんには制作に無理って言われたら諦めろって言われていたんですけれど、気づいたらどんどん状況が希望通りに進行していくから、素直にすごいなって、思いました。加瀬さんもすごいなって。もう、全て終わったことですけど」
「それって、」 
 僕が口を開きかけた瞬間、
「失礼します」
 という言葉と同時に個室の引き戸が開き、黒い制服を着た若い男の店員がオーダーしていたドリンクのグラスをテーブルの上に置いた。
「ごゆっくり」と引き戸を閉じる店員に由佳は軽く会釈をすると、
「色々ともうご存知かもしれないですけど、いっそのこと全部お話しますね」
 そう言って頬杖をつきながら、手元に引き寄せたグラスの氷を指で軽くつついた。

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