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【日本橋魚河岸】 いにしえの魚市場の記憶

こんにちは、さかな一代の中乃一です。

日本橋の市場は魚河岸、築地は魚市場と呼ぶのが私にはふさわしいと思われる。日本橋の市場のイメージには魚河岸という言葉がぴったりしているのだが、築地の市場は、魚市場というのが合っているようだ。とりあえずは、古い魚河岸のことを話そう。古い、とは言っても、明治中期以降のことであり、それ以前のことは、私の経験もなく、また資料もない。

以降の出典含め:さかな一代 安部小次郎自伝

豊洲市場の人たちが、今も歴史ある築地市場を愛しているように、築地市場の時代の人たちまた、日本橋魚河岸を愛していました。それは、その時代を生きてきたという自身の足跡への肯定であり、どんなかかわり方であれ、市場というまるで生き物のようなシステムと日々戦っていた苦労から来る、畏怖の念から来るものだと推察します。

年末のこの時期、年末特番で「大型時代劇」って言うのがめっきり減ったけど、ぼくたちの大先輩の生きた”少し古い時代”を、敬意を込めて少し紹介してみたいと思います。

ちなみに魚屋さんにフォーカスを当てた時代劇に「一心太助」があるんですが、ご存知ですか? 江戸の街を舞台に、義理人情に厚い魚屋太助の活躍を描いた作品で、たびたび映像作品化されるので、時代劇ファンならずともなじみがあるのではないでしょうか。ちなみに太助は、架空の人物なのですが、実は実在するモデルがありまして、さかな一代の大人たちでも紹介している、今も続く小田原の老舗「鮑屋」さんの主人なんだという説があります、かっこがいいやね!
そんなフィクションから時間が経過した、記録のある近代日本橋魚河岸を掘ってみましょう。


日本橋魚河岸って何よ?

「河岸」とは荷物の積み下ろしをする場所です。運送の主役が水運だったころ、特に魚の取引をするために積み下ろしをする河岸、つまり「魚河岸」が、全国にはたくさんありました。
それから、お江戸、庶民の中心地は、日本橋でした。名前の通り、日本橋魚河岸は、東京・日本橋にあった魚の取引をするエリアの名前であり、組織でもあり、システムでもあります。
現代の魚市場とは、少し様子も仕組みも違っていました。

日本橋魚河岸を記す石碑と乙姫の像

日本橋魚河岸の構造について

日本橋魚河岸の仕組みは、主に荷主と問屋、仲買人、小売人からなっていたようです。安部小次郎翁が回顧記録を残した1970年頃当時の築地市場と比べた、明治期の日本橋魚河岸をこう記述している。

荷主については今と大差ないようであるが、交通機関の発達につれてその範囲はひろがった。古くはわずか、武蔵、相模、伊豆、下総、房総ぐらいであったものが、今日、交通機関の発達とともに、全国に及んでいるのは、まことに隔世の感にたえない。
さて、荷主には次の三種類がある。比較的大きな荷主で、自力で市場に送荷するもの、これは大敷網、大諜網を直接経営するものである。次に餌場の荷主、これは漁師から買い集めるもので、資金の少ない漁師が浜値より一、二割安く、市場に売りわたし五十集商餌場がこれを集めて送荷した。この二者の他、二者即ち大きな漁師と、五十集商餌場をかねた荷主がある。

さかな一代 安部小次郎自伝

日本橋魚河岸に水産物という荷物を送ってくれる荷主、つまりは魚の漁獲産地の漁師さんたちが、西は神奈川県や静岡県伊豆あたり、東は千葉県や茨城県域まで及んでいたことがわかります。
これが明治期を通じて発展し、築地へ移転する少し前の頃になると、輸送手段が格段に発達し、遠く三陸や北海道の荷主も現れ始め、東京の人口増加と相まって、ますます通過量が拡大、隆盛を極めました。

明治期のある時点での問屋の数が24社程であったと別に記載されているので、それぞれの問屋が各産地と連携を取り、競って産地からの荷物を築地へ引いていました。
今の豊洲市場では、この日本橋時代の問屋にあたるのが卸売業者と言われる会社で、産地の荷主からの荷物を受ける側なので、「荷主」に対して「荷受」と呼ばれています。ちょっとツウぶりたい方、卸売業者を「ニウケ」と呼んでみてください。
そして、日本橋魚河岸をより活気のあるものとしていたのが、仲買人の存在ではないかと思います。次はこの仲買人について。

仲買人は次のように生まれた。以前は問屋に漁獲物が大量に入った場合、問屋が小売人に売るのみでは、処分しきれないので自己の雇人を使い、小売商にかわり、一般消費者に販売させていたのが、雇人から、次第に下請け売買業者にかわり、独立して各問屋の下請け仲買と称するようになった。これらは今日の仲買と、ほぼ同一の商行為をしたものであって、かなり古い頃からあったもののようである。仲買は問屋から再委託を受け、販売が済んでから、問屋とソロバンで協議の上、いろんな駆け引きなどもあり、値を定めて、これを荷主の仕切りとした。

さかな一代 安部小次郎自伝

明治期の日本橋魚河岸以前から存在していたとされる、この仲買人が、豊洲の今へ続く、仲卸業者や売買参加者、ということになります。ここでの価格形成プロセスは記載にもあるように、仲買が販売してみて魚の値段が決まり、それを元に、仲買は問屋からの仕入れ値を決めていた。そして問屋はその価格をもとに、荷主との「仕切り」、つまり荷主の送ってきた魚の価格として代金の支払いをする、という流れが一般的でした。まだ、セリのような価格決定の方式でないことがわかります。

そして仲買が、小売人に対して魚を販売し、小売人が一般消費者に販売することになります。小売人には、町に店を持っていて、魚河岸に買い付けに来る人、それから「俸手振り」と言われる、肩で天秤棒にかけた磐台をかついで、各地を売り歩く行商人が数多くいたとされます。
こうして主に東京都内の一般消費者のもとへお魚が届けられていました。記録によれば、内陸部の熊谷、川越、八王子あたりから、日本橋まで、夜通し歩いて来ては、自分の街へと戻って売り歩く小売人もいたようで、それが古くの日本橋魚河岸の商圏の及ぶところだったようです。

こうして、維持、発展してきた日本橋魚河岸ですが、1923年の関東大震災を期に移転することとなり、1935年に築地市場として移転事業が完了しました。この築地市場についての安部小次郎翁の記述は、また機会を見て紹介したいと思います。

日本橋から築地への魚市場の変遷や、漁業や水産流通の近代化についての書籍が「さかな一代」なんです!

noteさかな一代の大人たちをずっと読んでいただいている方以外には、この時代資料の出典元の「さかな一代」だったり、安部小次郎という人が何者なのかわかりませんよね。
ネット通販サイト「さかな一代」の運営会社、共同水産株式会社を創業した人物です。安部小次郎は、明治・大正・昭和を生き、水産業の発展に大きく貢献しました。「さかな一代」は、この安部小次郎が残し、築地魚市場銀鱗会によって書籍化された記録自伝書籍です。


ネット通販サイト「さかな一代」は、この創業者である安部小次郎翁の功績にあやかり、ECサイトのブランドとして、2021年にデビューさせてもらっています。

ハイカラさん

そんな安部小次郎の人柄がわかる記述を最後に紹介して、今回の日本橋魚河岸の回は閉めさせてもらおうと思います。

さて日露戦争も勝利のうちに終わり、兵隊は郷里へ帰ることになった。他の者は軍服それも着古しのものを着て帰っていったが、私はそのとき、上官に話して洋服をこしらえ、郷里にかえり、更に東京に戻った。そのころ、市場で洋服を着る人は殆どなく、きまりが悪い気もしたが、これも私が初めてだったと思う。以来私は和服も時には着たが洋服で通した。いわゆるハイカラだったのだ。

さかな一代 安部小次郎自伝

日本橋魚河岸を、さっそうと洋服で闊歩した若かりし頃の安部小次郎、十分その後の水産界での活躍を予感させていました。常に時代の最前線を行く人だったことがうかがえる記述ですね。

ECサイトのブランドとして、2021年9月にデビューさせてもらった「さかな一代」と、オウンドメディア「さかな一代の大人たち」。
2021年は、みなさんとの出会いの年になりました。まだまだ駆け出しのECサイトと、小さな小さなメディアですが、この出会いがどんどん拡大していくことを夢見ています。

みなさんとの出会いに感謝。さかな一代の会員登録をしていただくことで、オンライン・ファミリーセール(グループ社内販売)にもご参加いただけます。(12月23日まで!)
是非、ECサイトものぞいてみてくださいね。

それでは、また次回をお楽しみに!

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