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人間には事情はなかった!

 こんばんは、藍作です。
 大掃除でパソコンにとりつくのが今になってしまいました。

 この間嬉しそうに、買った『口語訳聖書』を写真アップしましたが、さっそく使用して学び始めています。
 さいわい、口語訳対応の注解も手に入りました!

 対応注解を参照しながらゆっくりと読んでいるので、まだマタイ福音書ですよー。
 しかしこの最初のところに、わたしの一番好きな聖句があるんです。
 
 それは
 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」
 という一節です。

 この一文に、これまで限りなく教えられてきましたが、今回も新たな発見がありました。

 人間の事情で人を見てはいけない。

 と思いました。

 わたしは、これまで、「どんな人間にも、その人なりの事情があるんだから、『あの人いいやつ』『あの人悪人』と決めつけてはいけない」と思っていたのですが、神さまはもっとスケールの大きな方でした。

 神さまのなかでは、善人、悪人という区分けすら消滅しているのですね。
 どんな人でも完全バックアップされている。
 そんな人間は、「事情抜き」で、無条件に素晴らしい存在だったのです!

 そんな存在を、人間の事情で判断してはいよいよいけないですよね。
 そしてこんな神さまだから、こんな私でも愛してもらえてる。感謝いっぱいです。

 しかし。
 突っ込まれる方もいっぱいいらっしゃると思いますよ。
「世の中、悪人でいっぱいじやないか。そんな赦してしまったら、社会が収集つかなくなる」等々。

 そうなんです。
 その問題の収拾のつかなさを書いたのが『旧約聖書』なんですね。
 しかし旧約聖書の時代から2000年たって、キリストが、それを十字架で根本的に解決しちゃったんですよ。
 十字架、いつか書きます。

 で、今は、イエスを通しさえすれば、無条件の愛が、人類に注がれる時代です。
 
 神さまが無条件で認めている人間を、人間が人間の事情で見てはいけない。
 まして人間が人間をさばいてはならない。

 キリストは、この後続けます。

「あなた方が自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか」

 と。

 聖書は無限ですね!
 
 

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。これからもがんばります。中村 拝。