見出し画像

R182 礎5月号

委員長挨拶

毎月、本部青年会例会席上にて青年会長様は挨拶をしてくださっています。
いつも身近なおはなしを交えて分かり易くお話をしてくださいますが、今月も同級生のつながりから取り組まれている活動のお話をしてくださいました。
友人をこどもおぢばがえりにお誘いしたつながりから、四季折々に様々な活動をして丹精されているそうです。今月はママさんと子供たち15名と共に、和気あいあいと筍堀りを楽しんだそうです。
その筍山へ向かう道中、参加者の男の子が「パパ」「パパ」と会長様の手を握って呼んだそうです。最初は聞き間違えと思ったそうですが、後にそのママさんとお話すると、最近、夫と離婚し、息子に寂しい思いをさせてしまっていることが分かってきたのです。
その時、実はこの活動を続けていくなかに、ママさんたちにどうやって「教会につながってほしい」「別席をいつ切り出そうか」ということを考えていて、一人ひとりのおかれている状況などに耳を傾けていなかったことを反省されたとのことでした。
当然のことですが、別席を運ぶことは素晴らしい尊いことです。しかし、ママさんたちが今どのような環境で、どんなことを感じながらにちにちを過ごしているのか、布教の実を考えすぎるあまり見えていなかったと反省したとのことでした。
その後、よくよく話を聞いてみると、じつは参加したママさん6人は1人を除いては皆シングルマザーだったというのです。
人はつい目の前のことに取り組みすぎるあまり、目的を忘れてしまうことがあります。そして、手段に取り組み続けているうちに手段が目的になっていることもあるのです。
青年会から毎月出版される『大望』という雑誌にこのような話がおさめられていました。
「旅人が、建築現場で作業している人に「何をしているのか」と質問した。一人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えた。二人目の作業員は「壁を作っている」と答えた。三人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えた。」
三人ともレンガを積んでいるということは同じで、「何をしているのか」という問いかけも同じですが、返答には違いがあった。
「今、自分が取り組んでいることは何のためにしているのか?」
会長様の話を聞いて、つねに「おたすけ」という目的を忘れることなく、いまお与えいただくことに向き合っていきたいと思わせていただきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?