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アルメニア生活期🇦🇲3

いざナゴルノ=カラバフへ。

 無事にVISAも取得でき、現実味を帯びると、その好奇心は何倍にもなる。首都エレバンからナゴルノ=カラバフまでは案外時間がかかってしまう。ナゴルノ=カラバフがあるのは事実上アゼルバイジャンの土地なため、わざわざジョージアを経由して来たのは御構い無しに横切るような形になる。
 朝早くにナゴルノ行きのバスに乗り込み準備は万端だった。そこからはひたすら揺れることになる。

そんな揺られている間にナゴルノ=カラバフのことについてここに記しておこう。と思ったが、ここは世界のWikipedia様から引用させてもらう。

ナゴルノ・カラバフを含むカラバフは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となっており、ロシア帝国崩壊後に両民族がアルメニア第一共和国とアゼルバイジャン民主共和国を建国すると遂には軍事衝突(アルメニア・アゼルバイジャン戦争(英語版))にまで発展した。その後両者は赤軍の圧力によって1920年末までに共産化し、ソビエト連邦の構成体であるアルメニア社会主義ソビエト共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国になった。だが、アルメニアがソ連構成体となる時にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がナゴルノ・カラバフとシュニク地方をアゼルバイジャンに割譲することを提案すると、追放されたアルメニア革命連盟が反ボリシェヴィキ運動を激化させ、1921年4月26日にはナゴルノ・カラバフを含むアルメニア南部において山岳アルメニア共和国の独立を宣言したが、赤軍との熾烈な戦闘の末に1921年7月13日に消滅した。

帰属が確定したのは共産化の翌年である1921年7月4日のことで、現地のボリシェヴィキによる国境画定交渉によってナゴルノ・カラバフはアルメニア領とされた。しかしアゼルバイジャン側は猛反発し、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまった。こうしてアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月7日にアゼルバイジャン内の自治州としてナゴルノ・カラバフ自治州が設置された。

自治州成立後もアルメニア人はソビエト連邦の政局が変わるたびにアルメニアへの編入を求めた。やがて1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連邦共産党書記長に就任、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されるとアルメニアへの編入運動はいっそう大きくなり、やがてアルメニアとアゼルバイジャンは衝突し始め、ナゴルノ・カラバフ戦争にまで発展。ソ連崩壊後はアルメニアへの合流を求めてナゴルノ・カラバフ自治州はアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)として1991年9月2日に独立宣言を発し、現在も独立状態を保っている。しかしアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル以外に独立を承認している国はなく、しかも全て一部・未承認国家であるため、あくまで事実上独立した地域である。承認を受けた3か国とは民主主義と民族の権利のための共同体を結成している。

つまり、アゼルバイジャン地域に住んでいたアルメニア人という複雑な関係が生んだ衝突なのだ。
 この2カ国に行って見て思うことだが、お互いがお互いを非常に憎み合っている。アゼルバイジャン人の前で下手に「アルメニア」という単語を発することができなかったが、逆も然りだった。しかし、幾分かアルメニアの方が寛容に思えたのは今現在アルメニアの統治下にあるからなのだろうか。

 のちに一緒にナゴルノ=カラバフに足を踏み入れたTさんはSNSに写真をアップしたところ、アゼルバイジャン人から「もう来ないでくれ」とコメントされていた。それほどまでに戦争が生んだ傷は大きいみたいだ。私が鍛治職人の町「ラヒッチ」で出会ったおじいちゃんも兄をその戦争で亡くしているみたいで、アルメニアみたいな国には絶対に行くなと泣きながら訴えかけて来た。今現在は目立った衝突は無いものの、外務省の渡航情報をみると危険レベル3になっているくらいだ。

少しの不安を抱きながらひたすら揺られる。窓から見える景色が気分を盛り上げてくれる。音楽がその景色に乗ってくる。ワクワクというのはこういうことをいうのだろう。未知の世界に飛び込もうとするたびこの感情が湧いてくる。

 どのくらい時間が経っただろうか。そこは国境であった。一丁前に国境まであるのだ。スタンプこそないものの、パスポートを提出し、VISAをチェックしGOサインがでる。「また1カ国増えた」そんなことを考えていた。
 そこからまた1時間以上走ったところにナゴルノの首都は存在する。無事に到着した私たちは思わず拍子抜けしてしまった。危険な香りが一切しない。むしろとても平和的な雰囲気を感じていた。人が温かく、街の雰囲気も落ち着いている。どこを歩いても声をかけてくれる。まるで衝突があったとは思えない街だった。

 もちろんそこにいる女性は美人ばかり。なんだかホッとしたよりも気が抜けてしまったという言葉の方がしっくりくる。宿までの道のりを歩いていると、タクシーの運転手が声をかけてくれる。今までのコーカサス地方に比べると、しつこいなと思ったが耳を傾けて見ると、宿の紹介だった。しかも英語が話せないので、そこに泊まった宿泊者たちの直筆のレビューだった。皆よく考えている。そして何か可愛らしさまで感じた。これを読んでくれと言わんばかりに渡された紙に書かれていたのは全て漢字。

はい。中国語でした。

もちろん。良い加減に慣れたし、なんとも思わなくなったが、そんなに中国っぽい顔してるかね?という疑問。
 実際私たちがヨーロピアンを見分けられないように、彼らもまた同じことを感じているのでしょう。

目星をつけていた宿にチェックイン。老夫婦が営む、おばあちゃんの家みたいな宿。英語は一切通じず、アルメニア語とロシア語の二択。なんとかボディランゲージや翻訳を使い意思疎通ができる。それにしても優しい夫婦で居心地がいい。
 機嫌を良くしたのかおじいちゃんが何やら紙を持って来た。そこに書かれていたのは全て漢字。

はい。中国語でした。

 しかもタクシーの運ちゃんが渡して来たのと同じ。きっと助け合って生きているのでしょう。実際日本人が書いたレビューもあり、ベタ褒めだったので、なんの心配も怒りもなく泊まらせてもらった。おじいちゃんもおばあちゃんもJAPANとわかった上でニコニコして過去の宿泊者のパスポートのコピーを見せてくれた。

1枚、2枚、3枚、4枚、5枚。そう。

全て中国人。

もはや可愛いと思ってしまった。まず、個人情報を見せるなと思ったが、彼らなりの優しさであり、コミュニケーションのと取り方なのだろう。早速チャイを頂き最高のナゴルノ生活が始まろうとしていた。