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吉田善史さん訪問記@唐津市唐房地区

2022年10月30日(日)AM04:37起床。久しぶりの福岡での夜を楽しみすぎて就寝時間がAM1時を過ぎてしまっていたのだが、そんなこと言ったら社内の人たちに叱られそうなのでここでバレないように白状しておく。

ホテルの時計

福岡市内から都市高速を通って約1時間。

午前6:20。唐津市唐房地区の牡蠣養殖漁師 吉見丸の吉田善史さんの船の前に到着。今日はその吉田さんの元に訪問しての体験を記録として残すためにnoteを書いてみる。

雲一つない快晴だった

海は大時化。命懸けの水揚げ作業。

本日の天気は晴れ。絶好の作業日和かと思いきや、天気予報では陸(おか)でも北からの風が5m以上吹くことが予想されていた。

実は昨日まで集合時間は午前8時の予定だった。
が、吉田さんから「明日はどんどん風が強くなる恐れがあり、牡蠣筏に船が隣接できない恐れがあるため、はやめの時間に来てほしい」という連絡があったのだ。

午前6時30分。牡蠣を水揚げするために港を出る。
善史さんとお父さん、そして叔父さんの3人に加え、博之さんとカメラマン、そして私の3人が乗船した。

いざ出港

「かなり揺れるので気をつけてください」と言いながら出港する善史さん。
私は何度も漁船には乗ったことがあったので、正直どれくらい揺れるものなのかは想像できているつもりだった。

がしかし、港の防波堤を越えるとその波が荒々しさを増し、風に吹かれた白波が船内に入ってくるほどだ。普段は優しい善史さんの目も変わってきた。

筏接近のタイミングを計る善史さん

船の上部にある鉄パイプに必死にしがみつくこと約5分。
ようやく善史さんの牡蠣筏見えてきた。

牡蠣筏に船を接岸させ、船と牡蠣筏を紐で縛り、下垂した牡蠣を引っ張り上げる作業を行うのだが、次々押し寄せる荒波が牡蠣筏に船を接岸させることさえ許してくれない状況だった。

大きな波をかわすこと数回。少し波がおさまったその瞬間を見計らって、船は牡蠣筏に近づくことができた。近づいたやいなや、善史さんは牡蠣筏に飛び乗り、筏と船が離れないように紐で固定していく(注:これを「もやう」と言うらしい)。


「SASUKEの選手かと思った」と博之さんはのちに話していたが、本当にあっという間の出来事だった。
万一波に飲まれたら、ただことでは済まないなと思った。

「漁師は毎日命懸け」と良く言うが、まさにこれを体感した。

波が高い中、筏の上で作業をする善史さん

その後、善史さんたち3名は、下垂している紐のうち1本を引き上げ、牡蠣の水揚げを行った。
機械で巻き上げると、紐にしっかりくっついた牡蠣がとれていく。

接岸してからこの作業まで5分ほどだっただろうか。

通常であればこの作業を20~30回ほど繰り返すらしいが、今日は大時化。
1回だけ牡蠣を水揚げたのち、安全を考え帰港することにした。

「あんな波の状況で作業をすることはまずあり得ません」と帰港中に善史さん。はるばるやってきた我々のために、普段は出港しない天気にもかかわらず最大限の注意を払った上で、出港してくれたのだ。

AM7:15。
港に着いた。
港に着くなり、3人は船上で牡蠣の仕分けを始めた。

水揚げ直後の牡蠣

固まった牡蠣たちをハンマーや手で割り、殻が割れるなどの理由で中身の入っていない牡蠣殻と中身の入っている牡蠣を手作業で分別していく。

AM7:30 牡蠣を選別していく

「この時期にしては、今年もまあまあ身入りが良いんです。」と善史さん。

中に身が入っている牡蠣の割合は、7割ほどだったように記憶しているが、年によっては2割程度しか入っていないということもあるそうだ。

「海が時化やすいからこそ波に揉まれて小粒ですが、噛めば噛むほど甘みが出る牡蠣に育つんです。」

ほうほう。(それは早く食べたい。)


「父親に漁師になれと言われたことはない」

善史さんは高校卒業後すぐに漁師の道に進もうと決めたそうだ。

「お父さんから小さい頃から継げと言われていたんですか?」と聞いてみた。

善史さんは「父親に漁師になれと言われたことはない。魚が好きなんです。」と笑いながら答えた。

魚好きは小さい頃からだったそうで、小学校の中学年くらいからはお父さんの船に乗り、手伝いをしていたらしい。

そうそう、魚が好きなのは善史さんの船からも伝わってきて、船には趣味用の魚釣りの仕掛けが道具も置いてあるほどだった。

ちなみに、吉田家が牡蠣養殖を始めたのが平成7年から。
それまでは「ごち網漁」という漁法で真鯛などを獲っていたが、年々収穫量が減っていたため、リスクヘッジとして牡蠣養殖を始めたそうだ。

今でも、ごち網漁は続けているそうだが、牡蠣がその売上を上回るほどになっているらしい。

そうこうしているうちに分別が終わった。
船から降り、身が入った牡蠣を漁協の作業場に運んでいく。
ちなみに身が入っていなかった牡蠣殻は、そのまま畑に撒かれ肥料になるらしい。

さて、お次は牡蠣殻からフジツボや海藻、ゴカイ(環形動物門・多毛綱に属する動物でミミズのような見た目)などの付着物をとる作業に入っていく。「昔はハンマーのようなもので付着物を剥がしとったとよ。でも今ではこんな機械が使っちょる」と善史さんのお父さん。

見せてくれたのは元々はアコヤ貝(真珠)やホタテや牡蠣などに付着したフジツボをモーターの回転力でかきとる機械だという研磨器。
このハンドクリーナー(貝殻掃除用モーター)を使って付着物を取っていくのだという。

牡蠣を始めた当時、真珠養殖をされている方から教えてもらった手法だそうで、これにより効率が圧倒的に改善されたのだという。

「それでも繁忙期は朝5時から昼過ぎまでずっとこの作業ばしよる。手の感覚が麻痺してくるったい。」と善史さんのお父さん。

そんなに大変な作業なのだなと思いながら聞いていたら、研磨器を私にも握らせてくれた。

一応合格したみたいだ。にしても1個あたりに時間をかけすぎた。笑


さて、そんな研磨作業が終わったらようやく出荷作業かと思いきや、実はもう一つ工程があるのだそうだ。

高圧洗浄機ケルヒャーを使っての最後の処理だ。
研磨器でもとれない汚れを丁寧に落としていく。

「牡蠣殻からゴカイやら石やら出てきたらお客さんも良く思わんでしょう」と善史さん。

見比べてみると一目瞭然。
右がケルヒャー前、左がケルヒャー後。


右がケルヒャー前、左がケルヒャー後

実際、善史さんのポケマルコミュニティには「綺麗な牡蠣でした!」という投稿がたくさんある。

牡蠣の水揚げから、選別、付着物を取る作業…となかなかお目にかかれない光景を目の当たりにし、メモをしきりにとっている私に、善史さんが牡蠣を持ってきてくれた!


小ぶりだから、どんどん食べられるからふさ牡蠣

う、うまい!東北の牡蠣みたく大きくはない1年ものの、からふさ牡蠣は、やや他の牡蠣より塩味が強いが、噛むと甘みが広がりとても美味しい。

小さめだからこそ、どんどん食べてしまい、しまいにはバケツの中が殻だらけになった。

バケツに入ったたくさんの牡蠣殻

ごちそうさまでした。

「ポケマルの出品ば、毎日見よるとですたい」

ポケマルを見るお父さん

作業の合間、おもむろにスマホを取り出した善史さんのお父さん。
何を見ているのだろうと覗いてみるとポケマルのアプリだった。

「ポケマルは毎日見る。どの地域で何が旬がすぐわかるけん。見とるだけで楽しか。」

その後も色々お話ししたが、魚介類の出品情報についてはお父さんの方が格段に詳しかった。笑

そんなポケマル好きお父さんの隣に、うず高く積まれたバーベキュー用の網を発見した。これは何かと聞いてみると、これは牡蠣を焼くための焼き台だという。

たくさんの牡蠣の焼き台

かつては、牡蠣を直接買い求めてくる方も多く、直売や牡蠣小屋を行っていたのだそう。
しかし、福岡市の都市部により近い糸島の牡蠣小屋が繁盛することでその先にある唐津にまでお客さんが足を伸ばさなくたった他、2020年以降はコロナの影響も相まって、客足が遠のいてしまったのだという。

作業場の隅には「カキ直売」の看板が置いてあった

「焼き台を出すのは、年に一度の商店街でのイベント時くらいかなー」とお父さん。

「16回も買い続けてくれているお客さんがいる」

そんなお父さんのお話を聞いていると、箱詰め作業がはじまった。
前日、前々日にポケマルで注文が入ったという商品を箱詰めしていく。

梱包をする善史さん

箱詰め作業を拝見させていただいたが、とにかく梱包が丁寧だ。商品を入れた上に、からふさ牡蠣の説明書が水に濡れないように加工されて入っている他、牡蠣ナイフまで同梱している。

丁寧な梱包に頭が下がる

牡蠣のおいしさと丁寧な仕事。それに惚れ込んだお客さんもたくさんいる。中にはこの2シーズンの間に16回以上も注文してくれているお客さんもいるそうだ。

そのお客さんからは「職場の人におすすめしました」や「2022年の牡蠣はいつから発送できますか?」というメッセージが届いているのだという。

その後、昨年漁協が新設した直販加工専用施設も案内してもらった。
6畳もないくらいの小さな施設ではあるが、一漁師ではなかなか手を出せない業務用の真空機や、魚をおろす作業台などが完備されており、これがあれば三枚おろしにした魚などを鮮度を維持し、発送することができるようになる。

「実はこの施設のおかげで、カマスのフライを商品化することができるようになったんです」と語るのは善史さん。

「魚をおろし、少量の塩とパン粉を振りかけ、真空にするという作業はこれまでできませんでしたが、この施設ができたことで販売できるようになりました。ちなみにこのフライはお客さんの声で生まれた商品です。」

善史さんのカマスのフライ

一般的には「直販と相対すると思われがちな漁協が直販用の加工施設を設置するなんて」と思われがちだが、玄海漁協の内田さんはいたって冷静だ。

「コロナで漁業者が販路に困っていた。それをどうにかしようと思っただけ。新たな取り組みを考えていたときにすぐさま乗ってきてくれた、県の方や漁業者には感謝している。」

そんな素敵なお話を聞いていたら、加工施設の外でも博之さんとお父さんがなにやら話し込んでいた。

聞くところによるとここ唐津市唐房(とうぼう)地区では年に一度の秋季大祭が行われるているらしい。今季の漁に感謝の意を表し、来季の豊漁や漁の安全を祈願するお祭りで、そのお祭りでは神事の後、地元に古くから伝わる「千越(せんごし)祝い唄」を奉納するそうな。

「千越(せんごし)祝い唄」を歌っている様子は下記のyoutubeを参照されたい。

この「千越(せんごし)祝い唄」はお父さんの話によると、少なくとも江戸時代の後期から歌い継がれてきた唄らしい。その唄の歌詞を調べてみると、

これも 山見さんの大御利生かな
アーヨイヤサ

https://www.uta-net.com/song/282366/

という歌詞があった。

「山見」とは「小高い場所から魚群が来るのを見張り、適当な所に魚群が来た時に出漁を合図し、配船・網張りまでの作業を指揮すること。また、その役。魚見。色見。」、「御利生」とは「仏菩薩などの救いのはたらきによって受ける恩恵。御加護。御利益(ごりやく)」の意だそう。

「唐房(とうぼう)地区でも魚群探知機なんてない時代には、漁労長(注:操業の全てを取り仕切る船の総責任者)がその山の上からいわしの魚群を見て、大きな旗を振って船に指示ば出しとったったい」

とお父さんが教えてくれた。

漁協の施設内にも「千越(せんごし)祝い唄」を歌う写真が飾られていた。

少なくとも150年間(昭和40年頃から一時途絶えてしまったが、平成に入り復活したらしい)は地区の人々によって歌い継がれてきたという「千越(せんごし)祝い唄」。月並みな言葉ではあるが歴史の重みを感じた。

歴史の重みで言えば、漁協の施設に飾ってあった歴代の区長さんのお写真たちからもその重みを感じ取った。

肉体的には一人で生きているように見えたとしても、本当は一人で生きてるなんでありえない。

車座最後の記念写真

以上中山の訪問記でした。車座の様子、他の生産者さんとのお話の内容、そして夜の飲み会…。書きたいことを書き連ねたら1万字を超えそうなのでひとまずこちらで筆を置きます。

お昼も夜も美味しかったー。

カツ丼とうどん


飲み会会場


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